708話 たった一人の戦い
「っ……! テミス」
「あぁ……おい。起きろッ!」
それから調査に進展があったのは、張り込みを始めてから三日目の昼頃の事だった。
既に事情を通達されているバニサス達からの合図を受けたフリーディアが、張り込みの退屈さに早々に飽きて持ち込んでいたティーセットを傍らに置いて鋭く声をあげる。
正直、身を潜めるべき張り込みの場にティーセットを持ち込むのはどうかと思うが、扉の隙間から外へと視線を向けつつ紅茶を楽しむフリーディアの姿は、どこか洗練された優雅さのようなものを兼ね備えていたのは確かだった。
しかし、マリアンヌに至っては、最初の緊張感は何処へと消え去ったのか、部屋の片隅で身を横たえて小さな寝息を立てている。
「んにゅ……? ぁ……」
「代われフリーディア。私が指揮を執る」
唯一、この三人の中で緊張感を絶やす事無く、人通りに視線を向けていたテミスは、足元でうめき声を上げるマリアンヌを見視して、手慣れた動きで外套を身に着けると、フリーディアの傍らをすり抜けて身を潜めた。
狙うは捕縛だが、できる事なら連中がこの町の中に置いている拠点も掴んでおきたい。
ならば、連中の後を付けて回り、少しの間泳がせておくのが得策だろう。
「よし……通って良いぞ」
「んだよ? 今日はヤケに細かいじゃねぇか。前にも来てるだろ? この町にはさぁ……」
「すまないな。だが、これも決まりでね。ホレ、朝方出遅れた分を取り戻すんだろ?」
「っと。そうだったそうだった。アンタも大変だァな。上が頭固ェと」
音も無く。身を潜めていた部屋からテミス達が滑り出すと、それを確認したバニサスが小さく頷いた後、何気ない雑談を交えて先を促す。
すると、商人らしき容疑者はその言葉に豪快な笑い声をあげ、お上への愚痴を残し、馬車を牽く馬を引いて歩き出した。
「フフッ……言われてるわよ? テミス。頭が固いって」
「はふぅ……あふ……。まさか、あの方もご本人に聞かれているとは思っていないでしょうねぇ……」
「うるさいぞ」
それを視界に収めるテミスの後ろでは、フリーディアとマリアンヌが暢気な言葉をテミスへと投げかけている。
これから始まる事の難しさに気付いてすらいないその態度に、テミスは内心で大きくため息を吐いて気を引き締めた。
「フリーディア。お前とマリアンヌは予定通り、担当の衛兵から奴の荷と滞在目的の詳細を聞いて来い。その間の追跡は私が担当する。合流までの制限時間は五分。それを超過した場合は直ちに詰所に帰投して指示を待て」
「なによそれ待っ――」
「――くれぐれも隠密任務だという事を忘れるなよ? 見付からぬからと大声で私の名でも呼んで探し回ってみろ。連中より先にお前達を殺してやる」
「っ……!!!」
ギラリ。と。
みるみるうちに小さくなっていく商人の背を追いかけるべく足を踏み出しながら、テミスはフリーディアとマリアンヌを鋭く睨みつけて言い残すと、その戦場であるかの如き迫力にビクリと身を竦ませる二人に背を向けて追跡を開始した。
「チッ……」
だが、テミスは商人らしき容疑者を追って駆け抜けた瞬間、舌打ちと共に身を翻し、人ごみの中へと身を隠した。何故なら、門を抜けた先にあったのはテミスの予想を遥かに超える雑踏で、人々話かき分けて進む馬車と、雑踏の中を縫い歩く人では、おのずとその速度が違ってくるからだ。
「まずいな……あの馬鹿共に構い過ぎたか……」
人の波をかき分け、ゆっくりと進んでいく馬車を視界に捉えながら、テミスは忌々し気に呟きを漏らした。
あの二人の様子ではとても理解などしてはいまい。
そもそも、この世界の殆どの連中は、剣で斬り合い、魔法を打ち合う派手な『戦争』こそを戦いとし、こうした追跡や諜報、暗殺などといった手段を軽んじているきらいがある。
だがそれは大いなる間違いで。テミスにとって、今……この場は既に戦場なのだ。
「クソ……。昔取った杵柄とはいえ、補助要員無しでの単独で何処までいけるか……」
商人らしき容疑者の馬車はどうやら、門を出てすぐの目抜き通りを、そのまま町の中心部へ向けて進むらしい。
本来ならば尾行任務には、標的を間近で監視するメインの役目を、複数人で代わる代わる交代しながら行うものだ。
それによって、同一人物に付け回されているという気配を断つと同時に、万が一メインの監視役が敵に捕捉された場合でも、残った人員だけで目的を遂行する事ができる。
「だがまぁ……気の抜けた相方が居るよりはマシ……か……」
テミスはこれからの予定を頭の中で確認した後、ボソリと小さく呟きを漏らして、商人らしき容疑者を視界の捉えたまま、人混みの中へと姿を消したのだった。




