698話 迷い断つ言葉
「私が手伝う」
「は……?」
ただ一言。
フリーディアはテミスへ向けて言い放つと、その横を静かに通り過ぎ、地面の上にへたり込んだまま放心するマリアンヌの肩へ優しく手を置いた。
そして、慈愛に満ちた静かな笑みを浮かべると、マリアンヌを慈しむかのように言葉を紡ぐ。
「今の貴女を襲っているのは、途方もない絶望かもしれない。……もしかしたら、貴女はテミスに裏切られた……見棄てられたと思っているのかもしれない。でもそれは違うわ」
「っ……。チッ……」
その光景を、テミスは僅かな間、驚愕したかのように目を見開いて見つめた後、視線を背けて小さく舌打ちをした。
あのやり方は確かに、どうあがいた所で私には出来んし、そもそも野郎とも思わないだろう。
まさに、敵をも愛し、全てを救いたいと願い続けるフリーディアだからこそ採り得る選択肢だ。
「貴女がテミスの背を追うんじゃないの……その隣に立って、あなた自身の目で未来を見つめ続ける。そうして、貴女の求めた道の先がテミス目指す理想と共にあるのなら……テミスはきっと、貴女の力になってくれるわ」
「……っ。…………ですが、私たちは……」
フリーディアによって示された答えを聞いて、マリアンヌの瞳に僅かな光が戻る。
しかし、それは今だ頼りなく不安に揺れており、傍らで己が身を支えるフリーディアへとすがるような色を帯びていた。
「ですがもけれども無いの! とりあえず、何でもいいから片っ端からやってみたらいいじゃない。テミスに縋るんじゃなくて、あなた自身の力でできる事を。それが見付からないって言うのなら、私が喜んで手伝ってあげるわよ!」
「そんな大それた事――」
「――出来ないなんて言わせないわよ? 目的は違っても、女神教の聖司祭として出来ていた事ができない訳なんて無いんだからッ!」
「フン……」
だが、マリアンヌの瞳の中で揺れる迷いさえも切り裂くように。
フリーディアは弾けるような笑顔を浮かべて断言すると、半ば強引にマリアンヌの身体を抱えて立ち上がらせた。
そんな二人を横目で眺めながら、テミスはフリーディアが弾き飛ばしたナイフを拾い上げて鼻を鳴らす。
マリアンヌが求める未来は未だ漠然としており、例え迷いが晴れたとしても、今その姿が明確になる事は無いだろう。
なにせ彼女は、自らが求め、思い描く未来の詳細を、今まで全て他人に委ねていたのだから。
「マリアンヌ。きっと貴女にも、ただ祈り救いを乞うだけじゃない……やりたい事や、貴女にしかできない事がある。まずはそれを見付けるの」
「私の……やりたい事……。私にしか……できない……こと……」
根気よく説き続けるフリーディアの傍らで、マリアンヌは駆けられた言葉をかみしめるように反芻しながら、音も無く涙を流していた。
暗く淀み、濁っていた筈のその瞳にはいつのまにか希望の光が灯っており、萎え崩れていた筈の四肢にもしっかりと意志の力が籠っている。
「面倒な……だが、もうこれは必要無いか……」
手に取ったナイフを眺めながら、静かに、しかし僅かに微笑みを浮かべてテミスは呟きを漏らす。
もしも、次があるのならば。その時マリアンヌへと向かる刃は、きっとこんなチャチな獲物では役不足になっているのだろう。
自らの命の意味を見つけ出し、誇りを以って私の前へと立ちはだかるのならば、その時は私も全霊を以って叩き潰さねばならない。
だが、願わくば……周囲の祈りに同調せず、己が祈りを貫き通したその根性を、私にも見せてもらいたいものだ。
「……お疲れさまです。テミス様」
手に取ったナイフを机の中へと仕舞いながら、テミスが胸の内で密やかに小さな願いを呟いた時。その傍らに歩み寄ったマグヌスが囁くような声で言葉を添える。
「フン……全くだ……。こんな役二度と御免だ」
そんな部下の労いに鼻を鳴らして答えるテミスの表情は、その言葉とは裏腹にどこか清々しく、満足気な笑みを浮かべていたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
一方その頃。
日の暮れたファントの町の片隅……外壁に面した最外周の大通りを、ボロボロの外套に身を包んだ数人の人影が音も無く駆け抜けていく。
人口が増え、活気に溢れたファントの町とはいえ、町の最外周区画に当たるこの区画は危険が多く、住居を置きたがる物好きは少ない。故に、主に通用道路として使用されて居るため夜は人気がぱったりと絶え、数時間おきに見回りの兵士が通るだけだった。
「クソ……どうしてこんな……」
「無駄口を叩くな。これも全て、我等が女神様の……ひいてはこの世界の安寧の為だ」
「わかっている。……にしてもだ。幾らなんでも割に合わなくないか? マリアンヌ様まで犠牲にして……」
「っ……!!」
暗闇の中を駆け抜けると同時に、人影たちがボソボソと言葉を交わすと、先頭を駆けていた一人が小さく息を呑み、速度を緩めて唇を噛みしめる。
「仕方が……無いだろう……」
瞬間。
ざぁ……と。
辺りに立ち込める不穏な空気を吹き払うかのように、一陣の夜風が駆け抜けると同時に、雲間から差し込む月明りが人影たちを柔らかに照らし出した。
「託宣は下されたのだ。我等は我等の矜持に従って正義を為すまでだ」
「そう……よね……。女神様の託宣に従っていれば、この世界は……私たちの世界は平和になる……」
言葉を交わしながら通りを駆け抜けた人影たちは、一軒の小屋の前で立ち止まると、周囲を二三度見回してからその朽ちかけた戸口をリズミカルに数度叩いた。
「……魔なる者は?」
「すべからく討滅すべし」
「よし……」
すると、僅かに開いた戸口の隙間から声が漏れ、人影たちはボソボソと数度言葉を交わした後、滑るように小屋の中へと姿を消していく。
そして、パタリと微かな音を立てて扉が閉まると、ファント最外周区画には、再び穏やかな静けさが戻ってきたのだった。




