697話 救えぬ者
「っ……!!!」
みしみし。ぎしぎしと。
万力の如き怪力でマリアンヌの首を掴んだテミスの手に力が籠められ、ゆっくりと、しかし確実にマリアンヌの首を締め上げていく。
しかし、マリアンヌはだらりと両腕を垂れ下げたまま動かず、ただテミスに為されるがまま、苦しむ素振りすら見せずに身を任せていた。
「フン……自らの全てを他人に委ねるが故に、自分の命ですら興味を示さんか」
呟きと共に、鋭く細められたテミスの目が冷徹な光を放ちはじめる。
当初の予定では、マリアンヌ達が無害であれば、彼女たちに危害を加える気など、テミスには一片たりとも無かった。
故に、町で過ごさせる為の警戒策として、女神教から最も恨みを買っているであろう自らが仮想敵となり、ロンヴァルディアの者であるフリーディアや白翼騎士団に懐柔を任せる腹積もりであった。
「馬鹿は死なねば治らんというが……」
「ゴ……カ……ア……」
ゆっくりとマリアンヌの細い首を締め上げるにつれ、その喉からは気道が潰れ、本能的に肺が酸素を求めるくぐもった音が聞こえ始める。
だが、それでも尚マリアンヌはただ緩慢と緩んだ瞳をテミスへと向けるばかりで、己が身に降りかかる理不尽を完全に受け入れていた。
「テミスッ!! 止めなさい! 今すぐその手を――」
「――放せと言うのか? 私には、この女がそれを求めているように見えるが?」
「っ……!!!」
言葉と共に、遂に忍耐の限界に達したらしいフリーディアが飛び込んでテミスの腕を掴み、その魔手からマリアンヌを解き放とうとする。しかし、冷たい瞳を動かしてフリーディアを見据えて言い放ったテミスの言葉に、声を詰まらせて動きを止める。
「でも……彼女は……マリアンヌは敵じゃないわッ!!」
「そうだな。加えて言うのなら、他者を虐げるような悪人でもあるまい」
「ならどうして!!?」
「…………」
テミスに詰め寄ったフリーディアが悲鳴のような叫びをあげると、テミスは真っ直ぐにその瞳を見据えていた視線を僅かに逸らし、マリアンヌの首を締め上げていた力を緩めた。
すると、脱力したマリアンヌの身体は、重力に従ってすとんと座り込むようにその場へと崩れ落ちる。
「……こいつは今、絶望の中に居るのだろう」
テミスは小さく舌打ちをすると、マリアンヌの姿をチラリと一瞥して、重々しく口を開いて語り始めた。
「不本意だが、マリアンヌの目的はどうやらこの私だったらしい。だがその希望も今や砕かれ、目の前に突き付けられたのは究極の二択だ。これまで信じてきたもの全てが瓦解したのだ……さぞその絶望は根が深いだろうな」
思えば、マリアンヌ達の一件は最初から妙ではあった。
女神教たる彼女たちが発見されたのは、彼女たちが門番たちへ素直に自らの出自を明かしたためだ。
加えて彼女たちは、仮にも聖司祭という身分を持つ者と共に人間領から渡ってきたというにもかかわらず、移動手段たる馬も連れていなければ馬車を利用した訳でもない。
その状況とこれまでのマリアンヌの発言を鑑みれば、彼女たちが女神教の内部において、どのような扱いを受けて居るのかなど察するには余りある。
「だったら――!!」
「――だったら何だ? 救ってやれと? こいつの歪んだ願いを叶えてやれと? なるほど確かに、聞き入れてやればこの場だけは丸く収まるのだろう。マリアンヌは望む信仰の対象を手に入れ、私たちは面倒な仕事から解放される。だが、それでは何の意味も無い」
眉根に深い皺を寄せたフリーディアが皆まで言葉を発する前に、テミスは機先を制して切り捨てるようにその答えを返した。
「ただ上が挿げ変わるだけ。マリアンヌは私の忠実な手駒となり、私はどこぞの狂信者のような、他人を利用する屑へと成り果てる。そしていつの日か、私が戦場で斃れる日が来れば、こいつはまた新たな庇護者を求めて旅立つのだろうな」
「それ……は……」
吐き捨てるように言い放ったテミスの言葉に、フリーディアは言葉を返す事ができずに拳を握り締める。
彼女たちにとって、テミスがどんな存在なのかはわからない。
けれど、マリアンヌ達がテミスに求めるものが、テミス自身は決して望んでいるものでない事だけは理解できた。
「私がこいつ等の望みを叶えることは永劫無い。ならば、そんな絶望の中を歩ませるくらいならば……いっそ殺してやるのが優しさであり、未来の障害となり得る可能性を排除する唯一の手段だとは思わないか?」
「っ……!!!!」
そう語り終えたテミスが僅かに見せた、冷たく……そしてどこか悲し気な表情を見た瞬間、フリーディアはその胸中を理解した。
以前彼女自身がそう言ったように、良くも悪くもテミスは鞭なのだ。
叱咤し、激励し、前へ進み続ける。だが、今ここでマリアンヌを殺してしまえば、テミスは大きな重みを背負う事になってしまうだろう。
なら、飴である私の役目は……。
「……。決めたわ」
目を瞑り、大きく息を吸い込んだ後。
フリーディアはテミスの腕から手を反して静かに立ち上がると、毅然とした表情で口を開いたのだった。




