696話 命の意味
「…………」
「っ……!!」
チャリィンッ……! と。
猛然と飛び出したフリーディアの剣によって、マリアンヌの手から弾き飛ばされたナイフが床の上へと落ち、澄み渡った音を奏でる。
その様子を静かに眺めながら、窓辺で佇むテミスは微かに唇を歪めて、音も無く笑みを浮かべていた。
「フゥゥッ……ッ!! テミスッ!!! 貴女ねぇッッ!!!」
直後。
大きく息を吐いたフリーディアが勢い良くテミスを振り返ると、目尻を鋭く吊り上げて猛然と抗議を始める。
「いくらなんでも! やり方があるって何度も言ったわよね!! 私が止めなかったらどうするつもりだったのッ!?」
「フム……考えていなかったな。でも良いじゃないか。事実、お前は止めたのだから」
「嘘おっしゃい!! 他でもない貴女が……私を信頼するような計画を立てるものですか!!」
「クク……」
気炎を上げて迫るフリーディアに対して、テミスはただ意味深な微笑みだけを返してやる。マリアンヌの企みの見当がついた以上、少々の無理を押してでも筋道を立てねばならなかった。
だからこそ、このような危ない橋を渡った訳だが。
「笑っていないでさっさと説明しなさいよッ!! マリアンヌさんをこんなに追い……詰めて……」
しかし、燃え上がる炎のような勢いで猛っていたフリーディアの気炎は、話の矛先が当事者であるマリアンヌへと向いた途端、驚く程早く、そして呆気なく鎮火した。
何故なら。
言葉と共に、フリーディアが視線を向けた先では、泣き叫ぶことにすら疲れ果て、途方に暮れた迷子の子供のように、両腕をだらりと力無く垂らしたマリアンヌが、焦点の定まらぬ目でぼんやりと宙を眺めていたのだから。
「っ……何……」
「オイ」
「テミス!?」
だが。
そんなマリアンヌの姿を見咎めた瞬間。
窓辺にもたれ掛かり、ただ佇んでいただけであったテミスは、ゆっくりとマリアンヌへ歩み寄って口を開く。
「私は言ったな? 他人が描いた理想を体現するのは御免だと……自分の頭で考える事をしない奴を導くのは御免だと」
「…………」
しかし、テミスが間近まで歩み寄りその胸倉を掴み上げても、マリアンヌは一切抵抗するそぶりなど見せず、ただ呆けた表情で視線を虚空へと漂わせるばかりだった。
「フゥム……」
「テミスってば!! 貴女――」
「――少し黙っていろ。これは思っていたよりも……重症だな」
その、一目見るだけでも分かるほどの異様な様子にフリーディアが再び怒声をあげかけるが、テミスは鋭く言葉を挟んで即座に黙らせる。
同時にテミスは、無抵抗のマリアンヌの顎を持ち上げ、どろりと濁った瞳を覗き込んだ。
「…………」
「…………」
誰もが口を噤み、固唾を呑んで見守る中で。緩慢な光を揺蕩わせるマリアンヌの瞳と、テミスの紅の瞳が交叉する。
そうか……この世界では、こういう形で生き永らえているのか。
テミスが覗き込んだマリアンヌの目は、誰よりもテミスが良く知る瞳だった。
それは、自分という確固たる『個』を持たぬが故に、ただ生きているだけの者の目。
自らの生を以て何かを為すのではなく、自らの生をただ保つ為だけに何かを為す者。
自分で何も持ち得ぬからこそ、他者から与えられた意味を自らが生きる理由とする。
――だが、果たしてそれは、『生きている』と言えるのだろうか?
得てして、そういった連中は他人の意思に踊らされた独善的な理論を正義と信じ込み、与えられた意味を全うする為の尖兵となるのだ。
そう。マリアンヌが使徒と呼ぶ、あのサージルのように。
「マリアンヌ……やはりお前……ここで死んでおくか?」
「ちょっとテミスッ!!」
ぼそり。と。
マリアンヌの瞳を覗き込んだまま、無感情に呟かれたテミスの言葉に、堪りかねたフリーディアがその肩を掴んで制止に入る。
しかし、テミスはフリーディアを黙殺したまま身体に力を籠めると、制止を無視して言葉を続けた。
「他人に自分の全てを委ねて生きるのは楽だもんなァ……? 自分では何も考える事などせず、自らの信じたものが正しいと言えば、慈悲無き虐殺ですら正当化される」
「っ……」
唇を不自然に吊り上げ、不気味な笑みを浮かべたテミスがそう言葉を続けた瞬間。
それまでただ虚空を見つめているだけだったマリアンヌの瞼が、ピクリと僅かに動く。
「お前が今、私に求めたものはそう言った類の物だ。お前はただ、自分が担ぎ上げるのに都合の良い神輿を探しているだけの卑怯者だ。ならば……」
「う……ぁ……っ……」
「何者でもないお前がここで死んだところで、何の問題もあるまい?」
テミスはそこまで語ると言葉を止め、マリアンヌの顎を持ち上げていた手をゆらりと滑らせてその首を掴み上げると、切り裂くように冷たい声で言い放ったのだった。




