695話 殉教者の祈り
「っ……!!」
フリーディアの、そして副官達の視線を一身に受け止めながら、テミスはぎしりと歯ぎしりをする。
遂に、この時が来たか。
自らの目の前で首を垂れ、まるで私自身が神であるかのように崇め奉るマリアンヌを見て、テミスは胸の中でひとりごちった。
本質を言うのであれば、私という存在はマリアンヌの言う通り、彼女たちが使徒と崇める連中と同じなのだろう。
だが……。
「何を勘違いしている?」
「え……?」
冷たく、そして感情の無い声で言葉を紡いだ瞬間。僅かな声を漏らしたマリアンヌが視線を上げる。
その目は戸惑いに満ちており、感動からくるものなのか悲しみからくるものなのか、マリアンヌの目尻には涙が浮かんでいた。
「私が使徒だと? 馬鹿馬鹿しい」
「ですが……」
「鬱陶しいんだよ。何でもかんでも女神様女神様。祈った所で所詮は偶像……何かを施す訳ではない。その証拠が……サージルだろうがッ!!」
叩きつけるような言葉と共に、テミスは大きく拳を振り上げると、苛立ちに任せて空を薙いだ。
だったら、何だというのだ。
私は連中とは違う。
ただ新たな生を与えたというだけで、それすらも利用し、この世界を一顧だにしない存在を、女神などとは認めない。仮にそれが女神だというのならいう、この世界に害をなす醜悪な存在だと言えるだろう。
「勿論ですとも……テミス様。貴女様は使徒サージル等とは違う。だからこそ、人も魔も平等に見据え、真なる女神様の意志を体現されているのでは無いのですか?」
「っ……!!」
バギンッ。と。
マリアンヌが言葉を重ねた途端、テミスの口から異音が鳴り響いた。
同時に、テミスは口の中に広がる鉄の味を噛み締めながら、マリアンヌの目的を理解する。
恐らく、魔族を悪と断じきれない彼女たちは、女神教の中で異端な存在だったのだろう。
だからこそ、女神を信じながらも、その教えに殉じきれない彼女たちは、その思いを胸の内に秘め、自分達を教え導いてくれる、都合の良い使徒を求めていた。
そこへ現れたのが、サージルを斃し、魔王軍と共に戦い、このファントを作り出した私だったという訳だ。
「クク……冗談じゃない。他人が描いた理想を体現するのも、自分の頭で考える事をしない奴を導くのも私は御免だ」
「待って下さい!! ですが、貴女様がこの地で成そうとしている事は――ウッ!」
薄い笑みを浮かべ、テミスは冷たい言葉と共にマリアンヌへ背を向ける。
直後、その背に追い縋るように立ち上がろうとしたマリアンヌを、傍らで様子を見守っていたマグヌスが倒れ込むようにして羽交い絞めに拘束した。
「……。良い、マグヌス……放してやれ」
「――っ!? ですが……」
「良いと言った。そんなに心配するな」
「……。ハッ……」
「っ…………」
肩越しにその様子を眺めるテミスの命に、マグヌスは一度だけ抗弁を試みる。しかし、柔らかな微笑みと共に重ねられたテミスの命に従い、音も無くマリアンヌの拘束を解く。
その光景を目の当たりにしながら、テミスの傍らに立つフリーディアは、事あるごとに腰の剣へと跳ねそうになる手を必死で押し留めていた。
「マリアンヌ。間違えるな。日々の恵みを神とやらに感謝するのは構わん。お前が考える人魔の在り方は、確かに我々の抱くものと似通っているのだろう」
「でしたら――」
「――だがッ!!!」
テミスは自らの言葉に割って入ろうとするマリアンヌの声を一喝して消し飛ばし、大きく息を吸い込んで床に膝を付く彼女を睨み付ける。
「我等の営みは我等のものだ。どこぞにおわす神でも何でもない、我々自身が向き合い、時にはぶつかり合って成し得たものだ」
そう言葉を続けながら、テミスは静かに自らの机の引き出しを開くと、息を呑むフリーディアを黙殺し、カタリと小さな音を立てて一振りのナイフを取り出した。
「……私はただ、自分が正しいと思った道を貫いてきただけだ。仲間が死ぬのは厭だし、自分を大切にしてくれた皆が不幸になるのは見たくない……力を持つ者が弱者を虐げ、嗤っているのが我慢がならん」
そう。今私の周りに居るのは、私が導いてきた者たちではない。
私はただ、好き勝手に自らの正義を貫いてきただけだ。サキュドもマグヌスも……そしてフリーディアも、各々の思いに僅かな差異はあれど、志を同じくし、肩を並べる同志に過ぎない。
「……。今ここで首を掻き切り、自殺しろマリアンヌ。そう命令したのなら、お前はどうする?」
「――っ!!!!」
「っ……!!」
テミスは冷ややかにそう言い放つと同時に、手に取ったナイフをマリアンヌの傍らへと向けて放り投げる。
コツリと軽い音を立て、床の上へと突き立ったナイフが鈍く光り、青ざめたマリアンヌの顔を映し出した。
「…………」
「……貴女様が……っ……!! そう……望まれる……のならッ……」
「っ……!! っ……!?」
窓辺に背を預けたテミスが見据える前で、マリアンヌは全身をがたがたと震わせながら、放って寄越されたナイフの柄に手をかける。
しかし、事ここに至ってもテミスは微動だにする事無く、二人の間で視線を行き来させるフリーディアの眼前で、ただ無表情にマリアンヌを見据えているだけだった。
「はっ……ぅ……っ!!! この命で我等が罪を雪ぐ事ができるのならッ!!」
「っ――」
「――っ!!!」
一瞬。
マリアンヌは弱々しい泣き顔を零しかけるが、悲痛な叫びをあげると、勢いよく床からナイフを抜き放った。
刹那。
マリアンヌを見据えていたテミスの視線が僅かに動き、固く歯を食いしばり、拳を握り締めていたフリーディアへと向けられる。
そして、自らの喉元へと向けられたマリアンヌの刃に、口上と共に力が籠められ……。
「全ては使徒様の――」
「――ハァッ!!」
一閃。
気迫の籠った声と共に、軽い金属音がけたたましく打ち鳴らされたのだった。




