691話 怒髪が天を衝く時
数日後。
テミスはここ最近続けられていた日々の勉強から離れ、久方ぶりに腰掛ける執務室の自分の席で肩を震わせていた。
「っ~~~!!!!! いいッッッ加減にしろッッッ!!!!! 連中は何だ! 何なのだ!! 問題ばかり起こさねば気が済まんのかッッ!!?」
ドガァッ!! と。
怒りを込めた咆哮と共に、テミスは報告の書類を手に持ったまま、自らの両手を力任せに机へと叩きつける。
これでは、フリーディアの勉強から抜け出した意味が無いッ!! そもそも、私が解放されたのだって、フリーディア自身の手がこちらまで回らなくなっただけでなく、内政を任せていたマグヌスからも支援要請が入ったからだ。
それもこれも、全てはフリーディアの奴が呼びこんだ女神教の連中が起こした騒動だ。
「白翼騎士団の連中もだッ!! どいつもこいつも腑抜けやがってッッ!! 終いには任務取り下げの嘆願書だと? そんなもの、自分達の上司の奴に言えばいいだろうがッ!!!」
「テ……テミス様……」
「今度は何だッ!?」
「そ……それが……」
怒り狂うテミスを憚るように、その大きな体躯を縮こまらせたマグヌスがあげた声に応え、テミスは血走った眼をマグヌスへと向ける。
「テミス様にお話があると……」
「今は忙しいッ!! マグヌス! お前が話を聞いておけッ!!!」
「で……ですが……」
しかし、テミスはマグヌスの言葉を最後まで聞く事なく一喝すると、湧き上がる苛立ちを周囲へまき散らしながら、再び皺だらけになった手元の書面へと視線を下した。
……時だった。
「おっしゃましまぁ~す。テミスさん、こちらにいらっしゃるんですよね?」
「ちょ、ま……バッ――!!」
「っ――!!!!」
気の抜けた声と共にノックが打ち鳴らされ、返答を返す間もなくガチャリと扉が開かれた。
その先には、浮世離れしたお嬢様が浮かべるような、甘ったるく柔らかで場違いな笑みを浮かべたマリアンヌと、その腕を止め損なったのか、マリアンヌの肩に手をかけたまま、みるみるうちに顔面から血の気が失せていくミュルクの姿があった。
瞬間。
一瞬にしてピリピリと毛羽立っていた執務室内の空気が凍り付き、戸口に立っていたマグヌスは大きく息を呑んでからその身を壁際に寄せ、その反対側で別の書類と格闘していたサキュドは、危機を察知した猫の如く、一目散に彼女の自室と化している指揮官私室へと逃げ込んだ。
「ほらやっぱり。いらっしゃるじゃないですか~。雷鳴のようなお声が、廊下まで響いていましたよ?」
「っ~~~~!!!!!」
ビキビキビキィッッ!! と。
炸裂寸前の巨大爆弾でも前にしているかのような周囲の雰囲気など歯牙にもかけずに、柔らかな声をあげながらマリアンヌが執務室へ足を踏み入れた瞬間。
マリアンヌを除く、その場に居る誰もが分かるほど鮮やかに、テミスの額に凄まじい青筋が浮かぶ。
けれそ、マリアンヌはそんなものなどまるで知覚していないかのようにテミスの方へと歩を進めながら言葉を紡いだ。
「何か、お困りごとでしたらお手伝いいたしますよぉ~? 警備ですか? 財政ですか? それとも……」
しかし、マリアンヌがテミスの前まで辿り着く前に、静かに傍らから進み出たマグヌスが彼女の前へと立ちはだかり、その巨躯を以てテミスの視界からマリアンヌを覆い隠した。
「マリアンヌ殿。ここは執務室です。入室はご遠慮を……」
「え~……でも……」
「ひぃぃぃぃっっっ!! バッッッカだろ!!! 命知らずなのかアンタッッ!! いいから早くッ!! こっちに来るんだッッ!! 話はひとまず、白翼騎士団の団長が聞くからッッ!!」
それでも尚、食い下がろうとするマリアンヌの後ろから、唇の端から悲鳴を漏らしながら、顔面蒼白の顔で駆け寄ったミュルクがその腕を掴むと、半ば強引に執務室から連れ出して姿を消す。
そして、彼女たちが去った室内にはマグヌスとその背後に居るはずのテミス、そして深海のように重苦しい静寂だけが取り残されていた。
「テ……テミ……ス……様……?」
「………………」
暫くの間、物音の一つすらしない沈黙が続いた後。
緊張感に耐えかねたマグヌスが、僅かに震える声をあげながら恐る恐る自らの背後を振り返る。
「っ―――――!!!」
そこでは、この世のものとは思えぬほどの怒りに顔を歪めたテミスが、今にも突き放たれんとばかりに、神速の速さで抜き放たれた漆黒の大剣を構えて硬直していたのだった。




