681話 悪意の胎動
一方その頃。エルトニア南方。名も無き遺跡群。
そこにひっそりと佇んでいるのは、瓦礫の山と化した廃墟群だった。
周囲に散らばる残骸から、辛うじて当時の面影を窺い知る事はできるが、まるで激しい戦火に呑まれたかのように激しく傷ついた遺跡は、静寂の中で眠りについていた。
その片隅。
まるで隠されているかの如く、その小部屋は瓦礫の山に埋もれていた。
「――。…………。――」
小部屋の中央には傷一つ無い石柱が聳え立っており、その表面には柔らかな笑みを浮かべた多くの男女が、慈愛に満ちた視線を中空へと注いでいる。
更に、小部屋の傍らには、酷く古びた一枚の扉があり、この小部屋の奥にはまだ、遺跡の内部へと続いているであろう道が存在するのが見て取れた。
そんな部屋の中。荘厳と聳え立つ石柱の前で、一人の男が顔を伏せ、一心不乱に祈りを捧げていた。
「我等が創造主たる天上の神々よ。我等女神の尖兵の忠誠は祈りと共に……この命を救いあげて下さったあなた方のものです」
ブツブツと呟くように紡がれるその祈りを聞く者が居れば、最早この男が正気でない事など一目瞭然であっただろう。
何故なら、男の頬はこけ、身に纏っているのはボロボロに壊れた甲冑の残骸だけ。しかも、至る所が焼け焦げており、男が僅かに身を動かすたびにボロボロと崩れている始末だ。
しかし、この場に男の祈りを妨げる者は居らず、男はただひたすらに祈りの言葉を連ねていく。
「私は偉大なる御身の僕であり、手であり、足です。遥かなる高みに負わす御身が意思を、この汚れた地上に示す奴隷です……」
「サージル様……こちらにいらっしゃったのですね」
「…………」
キィ……と。
小部屋に存在する唯一のドアが軋みを上げて開くと、戸口から一人の女が顔を出し、静かに声をかける。
女の身なりも、薄汚れた粗末なボロ布を纏っているだけで、それはまともに服と呼べるものでは無い。
だが、女の呼びかけに応ずる事なく、サージルと呼ばれた男はひたすらに祈りを捧げ続けていた。
「っ……」
しかし、女は自らの存在を黙殺されたというのにも関わらず、陽に焼けた頬を僅かに紅潮させ、熱心な視線をサージルへと注いでいた。
静謐な空間に、サージルの唱える祈りの言葉と、女の静かな息遣いだけが響く時間がしばらく続いた後。
ガシャリ……。と音を立てて、祈りを終えたサージルが静かに立ち上がる。
「……カレン。また来ていたのか」
「申し訳ありません……。ですが、サージル様。お食事の準備が整いましたので……」
「もう……そんな時間か……。わかった」
祈りを終えたサージルは会話を交わすと、柔らかな笑みを浮かべて頷いた後、石柱へ向けて深々と頭を下げてから小部屋を出る。
カレンと呼ばれた女もその後に続き、小部屋には再び穏やかな静寂が訪れた。
「あの……サージル様……」
「なんだい?」
「あちらのお部屋は……その……」
「あぁ……。でも、これだけは譲れない」
「そう……ですか……」
暗く湿った廊下を歩きながら、カレンとサージルは短く言葉を交わす。
言葉を交わす……といっても、ただカレンが遠慮がちに問いを投げかけ、サージルが皆まで告げる前に即答しているだけだが。
「ならばせめて……武具をお持ちください。人の足が絶えて久しいとはいえ、最近はエルトニアの動きも活発ですし……」
「必要ないよ。僕は勇者だ。それは君達も、わかっているだろう?」
「は……はい……。差し出がましい進言……お許しください」
自信に満ちた声で断言するサージルに、カレンはビクリと肩を竦ませて頭を下げる。
だが、サージルは自らの側で頭を下げたカレンに一瞥も暮れる事は無く、ただ目の前に広がる闇を見据えて思考を続けていた。
この地で目覚めてから、かなりの時間が経った。
暗い廃墟の中で力を蓄え、今やこの能力は以前とは比べ物にならないほど強くなった。
厚き信仰を携え、祈りを共にする兵を揃え、その力は今も確かに、着々と増している。
「今の僕なら……憎き君に届くのかな……?」
ニヤリ……。と。
目を見開き、鋭く口角を吊り上げたサージルは、暗闇に向けて手を翳すと、己が胸を焦がし続ける一人の少女へ向けて問いかけたのだった。
「ねぇ……テミス?」




