677話 怪しく微笑む助っ人
「はい。それじゃあ、私が戻るまでにその本の内容、説明できるようにしておいてね? 書類仕事を片付けるだけだから、一時間か……遅くても二時間くらいで戻るから」
「っ…………」
「へ・ん・じ・は?」
「わ……わかった……」
静かな勉強部屋の中に、フリーディアの語気の強い声が響き渡った。
その目尻を鋭く吊り上げて指し示していたのはテミスの手元、初級魔術大全と銘打たれた極厚の本だった。
その分厚さは、誰もが一目見ただけで二時間やそこらで読破できるような代物ではないとわかる程だが、フリーディアは涼やかな顔で微笑んだ後、扉へ向けて軽快な歩調で歩み始める。
だが、今のテミスには抗弁する余力すら無く、ただうめき声を上げながら示された本を恨めし気に睨み付ける事しかできない。
「そんな顔をしなくても大丈夫よ。そのくらいなら今の貴女ならできるはず。それに、分厚く見えるけど、図や魔法陣が多いからスラスラ読めるわ。それじゃあね」
「…………」
上機嫌で部屋を後にするフリーディアの背を見送ると、テミスは再び目の前に鎮座する本へ視線を戻した。
スラスラ読める……などと言っていたが、そんな甘言に騙されるような私ではない。
図が多い? 魔法陣が描かれている? 何を言っているのか。
例え図や挿絵が入っていたとしても、手で持つだけでも苦労する程の大判の本の癖に、まるで広辞苑が如き極厚さを誇るモノを、そんな短時間で読破できる訳が無いのだ。
「……無理だ。出来る訳が無い」
ゴトリ。と。
テミスは投げやりな口調でそう呟いた後、最早鈍器でしかない本を机の上に投げ出した。
取り組んでも取り組まなくてもどうせ叱られるのだ。ならば、この貴重な自由時間を休息に当てるべきだろう。
そもそも、こんな事をしても無駄なのだ。
確かに知識はいくらかついたが、この地獄のような学習期間を暫く耐え忍んだ今でさえ、私の技を再現させる手掛かりすら掴めていない。
「何の得も無いというのに、無駄と分かっている事に時間を費やすほど無為な事も無いな」
テミスは机の上に投げ出した初級魔術大全の上に突っ伏すと、本を枕代わりにして静かに目を瞑った。
せいぜいこの睡眠で、明日の朝起きるのに苦労しない程度の体力が戻ればいい。そんな事を思いながら、テミスはどこか自嘲気味な笑みを口元に浮かべていた。
「テ~ミ~ス~……さまっ!」
「ン……」
フリーディアが部屋を後にしてから数十分が経った頃だろうか。
顔を伏せたテミスの意識が、漸く微睡み始めた頃。
唐突に頭の上の方から降ってきた、朗らかな声が意識を覚醒させた。
「そのご様子だと、お勉強……大変そうですね?」
「サキュドか……まぁな。途方もなく苦労しているのは間違いない」
「クス……。マグヌスから聞きましたよ? なんでも、魔力と闘気の違いを探られているとか」
「あぁ……」
気だるげにテミスが顔を上げると、小さな笑みを浮かべたサキュドがその顔を間近まで近づけていた。
だが、いつもならばテミスは即座に払いのけるか、飛び退くかしていた。だが、それすらも億劫だと感じたテミスは、ただ何をするでもなく半目でサキュドの言葉を首肯する。
「ん~……これはなかなかに重症ですね。お手伝い、しましょうか?」
「……判るのか? 魔力と闘気の違いが?」
サキュドは言葉と共に苦笑いを浮かべて身を引くと、憐れみを込めてテミスを見つめた。
その言葉に、テミスはピクリと肩を震わせると、枕としていた初級魔術大全に戻しかけていた頭をピタリと止める。
「いいえ? サッパリです。そもそも私、魔力専門ですし」
「……そうか」
ぱたり。と。
あっけらかんと言い放ったサキュドの言葉に、テミスは気の無い返答を一つ返して本の上へと頭を沈めた。
そうだ。こいつはこういう奴だった。
それに、サキュドは槍を使っての近接戦闘もこなす所為で錯覚しがちになるが、彼女を役職として分類するのであれば、先程の言葉通り魔術師なのだ。
ならば、闘気の事を知らぬ分、その両方を扱えるマグヌスよりもその手の解説に明るいはずも無く、テミスは今度こそ全てを諦めて静かに目を瞑る。
「あはぁ~……。何と言うかこう……参っているテミス様を眺めているのもイイですけれど……」
「…………」
ぞくり。と。
鼻にかかった甘いサキュドの声に、テミスは仄かに身の危険を感じながらも、固い意志を以って休息を選んだ。
どうせサキュドの事だ、いつものように揶揄って遊んでいるだけだろう。それに、本当に襲い掛かってきたのならば、その時に撃退してやればいい。
そう断じてふて寝を決め込むテミスを、サキュドはニンマリと満面の笑みを浮かべて存分に眺めると、その耳元に口を寄せて囁くように言葉を紡ぐ。
「……その枕。よろしければ解説しましょうか? 今ならサキュドちゃん秘蔵の魔力を掴むコツもお教えします。実践付きで――あだッ!!?」
「――っ!! サキュドッ!! 是非ッ!!! よろしく頼むッ!!!」
サキュドが言葉を紡ぎ終わる前に、テミスは目の前に吊られた餌に飛びつくように勢い良く身を起こすと、額を押さえて蹲るサキュドに目を輝かせて頷いたのだった。




