676話 気力の果てに
人は何故、一万などという膨大な数を知ってしまったのだろう。
口で言うのは容易く、概念としてただ、ものすごく多いのだという事が漠然と思い浮かびうる数。
それが、一万という数の本質だ。
だがその本質が持つ脅威を、この世界に生きる人々の殆どがその身で体感した事など無いだろう。
たった一人で一万の兵に立ち向かう事などあり得ないし、ましてや素振りを一万回も繰り返す事ができるのは、一部の強靭な心を持った狂人だけだ。
「うぅ……あんまりだ……」
フリーディアの授業から逃走した翌日の朝。
テミスは幾度繰り返したか解らぬ、呪詛の如き不満を胸の中で吐き出すと、ベッドの中でうめき声を上げながら、その全身を襲う痛みに悶えていた。
四肢は鉛のように重く、微かに力を加えただけで鈍い痛みが走る。
普段よりも僅かに熱を帯びた体は恐ろしい程に気怠く、今のテミスにはベッドから起き上がる事すら至難の業に思えた。
「き……筋肉痛……」
痛むし酷く怠いが、動かない事は無い。
テミスはそんな矛盾した症状を呪いながら、鬼のような形相で歯を食いしばってベッドからその身を起こした。
「それもこれも全部ッ……!!」
まるで、生まれたての小鹿のようにぷるぷると脚を震わせてテミスは立ち上がり、身支度を整えながら食いしばった歯の隙間から恨み言を漏らす。
私がここまで地獄の苦しみを味わう羽目になったのは他でもない、全てフリーディアの奴の責任なのだ。
マグヌスの指導による地獄の素振りが始まってから数十分後。フリーディアはテミスの目論見通り、逃亡を図った彼女を探し回った末にテミス達の元へと辿り着いていた。
だが、その額に確かな青筋を立て、涼やかな笑みと共に放たれた言葉は、テミスが願っていたものとは真逆のものだった。
「素振り各種一万回……? その後に走り込みはやらないのですか?」
明らかに、マグヌスを挑発しての一言。
自らの元から逃げ出した私を処断する為、あろう事かフリーディアは地獄のメニューを更に進化させたのだ。
無論。あのマグヌスがその手の挑発に乗らないはずも無く。
過度な信頼と共に増やされた課題を私は、ただひたすら必死になって消化し切った訳だが。
「挙句。闘気のヒントすら掴めん……とは……っ!」
ドサリ。と。
痛みを堪えながら着替えを終えたテミスは、一度そのままベッドに倒れ込むと深いため息を漏らす。
長く、苦しい運動の末、確かにその苦痛が和らぐ瞬間はあった。
だがその正体をテミスは知っている。名をランナーズハイ。過度な苦しみを和らげるために分泌された脳内物質の賜物であり、決して闘気とは関係の無いものだ。
「ハァ……今日ほど憂鬱な日は無いな……」
重たい手足を引き摺りながらテミスは部屋を出ると、苦笑いを浮かべたアリーシャ達の見送りを受けつつ、鈍重極まる速度で詰所へと足を向けた。
普段ならば、テミスが無理をしてまで出向く事など無かったし、フリーディアの仕込みが無ければ、今も唸りながらベッドの上で丸まっていただろう。
フリーディアの残した仕込み。それは、過酷極まる運動の果てに力尽きたテミスを宿まで送り届け、あろう事かアリーシャ達の前で爽やかな笑顔で翌日も通常運転だと言い放ったのだ。
「何が悪魔だ……私なんぞより、アイツの方がよっぽど悪魔じゃないか……」
そんな事をされれば、逃げ出す事なんて不可能だ。
フリーディアに頼んだ勉強から逃げ出した……なんてアリーシャとマーサに知られた日には最後、母と姉の手によって説教地獄に叩き落とされるのは目に見えている。
ブツブツと恨み言を呟きながら、死に体の身体を引き摺って歩むテミスの姿を、道行くファントの住人達は何事かと遠巻きに視線で追って通り過ぎていく。
だが、その真相を不機嫌極まるテミスに問いかける事のできる胆力を持つ者は居らず、その結果テミスは無事に詰所へと辿り着いた。
「嗚呼……着いて……しまった……」
門をくぐり、ピタリと足を止めたテミスは萎み切った風船のように肩を落とすと、『勉強部屋』に向けて歩みを再開させる。
もうフリーディアと約束している時間は既に目前。いくら気分が向かなくても、今のテミスには逃げ出すという選択肢は無かった。
「くふふっ……面白そうね?」
そんな、ヨボヨボと詰所の中へと吸い込まれていくテミスの姿を、口角を吊り上げた小さな人影が一つ、詰所の屋上から静かに見守っていたのだった。




