671話 新たな朝
ファントの町を治めるテミスの朝は早い。
起居している宿屋の手伝いをするために日の出と共に目覚め、朝の仕事をこなした後、遅めの朝食を摂ってから軍団詰所へと赴くのだ。
故に、惰眠を愛するはずのテミスが昼前まで眠っているのは、週に一度、マーサから休むように厳命されている日のみなのである。
しかし。
「ぁ……ふぁ……」
ぐぐ……。と。
マーサの宿屋の一室。テミスがこの町へ転がり込んでから間借りしている部屋では、この部屋の主が大きな伸びをしていた。
その髪は、まさに今起きたばかりだといわんばかりに跳ね放題で、彼女が寝間着として好む大き目サイズの服の胸元はだらしなくはだけられている。
その姿からは、普段の覇気など微塵も感じられず、仮にこの姿を宿での寝起きを共にした事のある者以外が見れば、外見の酷似した別人だと思うのは間違い無いだろう。
「もう……朝か……」
そんな、限界まで怠惰を極めたような格好のまま、テミスはボソリと呟いてベッドから降りると、まだ寝足りないと言わんばかりにぐしぐしと目を擦る。
だが、窓の外では既に太陽は天頂まで昇り詰めようとしており、テミスの漏らした呟きが、彼女の気の緩みを体現していた。
「んぁ……ぁふ……」
ベッドを降り、しばらくの間グラグラと頼りなさげに上半身を揺らしていたテミスだったが、漸く意識が現実へと戻ってきたのか、大きな欠伸を一つ繰り出した後、その背筋がピンと伸びる。
「さて……」
しかし、テミスがこの調子なのには理由があった。
フリーディアが狙撃されてから数週。テミスは自らの担っていた仕事と方針をマグヌス達に叩き込み、ファントの町の運営はつい先日、完全にテミスの手から離れたのだ。
もっとも、仕事を任せられたマグヌス達としては、あくまでもテミスの留守を預かっているだけに過ぎないのだが。
「ひとまず、いくらか光明が見えたのはこれだけか……」
脳味噌を完全に起動したテミスは、起き抜けの格好のままで散らかった机に歩み寄ると、様々な本や走り書きの文字が記された紙の中から、比較的丁寧な文字で書かれた一枚の紙を取り上げる。
そこには、テミスがこれまで使用してきた技の名が書き連ねられており、その傍らにはバツ印や三角マークが描かれていた。
テミスとて、ただ怠惰な時を過ごしていた訳ではない。
神から授かった能力を封ずると決めたテミスは、毎夜遅くまで自らの技について、能力を使わずにいかに再現するかを研究していた。
「月光斬に剛魔雷槌衝……やはり、実戦で使った事がある技だけでは少ないな」
くしゃり……。と。テミスは呟きと共に紙を握りつぶすと、逆の手でガリガリと乱暴に頭を掻きむしりながら呟きを漏らした。
数週間にわたる研究の末、辿り着いた結論は、『再現はほとんど不可能』だった。
現実的に考えて、能力を使用せずに武器自体の形を変化させて戦う事は困難だ。その時点でテミスの扱った技の大半が候補から消え、そこから更に威力の強大過ぎるものが除かれた結果、辛うじて再現可能である技はこの二つだけだったのだ。
「これまで私が……どれだけこの力に頼り切っていたかが分かるようだな……」
テミスは皮肉気な笑みを浮かべ、握り潰した紙を放り出すと、着ていた服をおもむろに脱ぎ捨てて着替えを始める。
だが、得られたものはそれだけでは無かった。
様々な試行錯誤を繰り返す中で、私のこの忌まわしい能力は、過程を通さずに結果だけを現実に反映させている事がわかってきたのだ。
つまり月光斬であれば、剣に纏わせた斬撃を放つという現象のみが現れている。なればこそ後は、フリーディアがやってみせたように、その結果が成り立つように過程を埋めてやればいい。
そうすれば私は本当の意味で、自らの実力として技を習得する事ができた事になるだろう。
「っ……。すぅ……っ……はぁっ……大丈夫だ、お前ならできる」
テミスは目を瞑って胸いっぱいに大きく息を吸い込んだ後、胸の内の覚悟を確かめてから自らを鼓舞する。
これからテミスが行おうとしている事は、ある意味でとてつもない裏切りといえるだろう。そして同時に、テミス自身にとっても耐え難い苦難が伴うのは火を見るよりも明らかだった。
「よし……行くか……」
それでも、前へ進むのだ。と。
着替えを終え、身なりをきちんと整えたテミスは、鋼のような覚悟の籠った瞳で、自室を後にしたのだった。




