669話 夢幻の庵
ふと気が付くと、フリーディアは見知らぬ部屋の中に佇んでいた。
色々なものが散乱した部屋の隅では、薄い板の中で人が喋っており、その傍らには大きな紙の束が幾重にも積み重なっている。
そして、その部屋の中心。
そこには、中二階と思われる場所から吊り下がった荒縄が一本、風も無いのに独りでにゆらゆらと揺れていた。
「っ……!!」
そんな未知の詰まった部屋の壁際に、フリーディアは漸く見知った姿を見つけて駆け寄った。
それは、様々な物が打ち捨てられた床に広がる美しい銀髪。
膝を抱えて床に座り込み、その上に額を落としているせいで顔は見えない。けれど、この私が見紛うことがあるはずが無い。
中二階へと続く梯子の下には、まるで何かから隠れるかのように、テミスが息を潜めていた。
「テミスッ! ここ……は……っ!?」
フリーディアは咄嗟にその名を叫び、テミスの肩に手をかけ、その身を揺さぶる。
否。揺さぶろうとした。
肩に置いたはずの手はまるで虚空を抜けるかのようにテミスの身体をすり抜け、当のテミスはフリーディアなど存在していないかの如く微動だにしない。
「なに――っ!?」
「もう、いいか……」
突如。
テミスはまるで死人かのように干からびた声で言葉を発すると、フリーディアの身体を突き抜けてゆらりと立ち上がる。
そして、部屋の中心にぽつんと置かれていた小さな椅子へと足をかけた。
「なに……を……」
ぞくり。と。
その光景を前にして、フリーディアは自らの全身に悪寒が駆け巡るのを感じた。
これ以上。ここに居てはいけない。この光景を見てはいけない。
そう全身の細胞が警鐘を発するが、フリーディアそんな耐え難い拒絶感に全力で抗うと、叫びをあげながら、今まさに椅子へとよじ登らんとするテミスの身体に縋りつく。
「テミスッ!! 待ちなさいッ!! 貴女何をするつも――っくぅ……!!」
しかし、フリーディアの身体はテミスの脚を通り抜け、飛びついた勢いを殺し切れなかったフリーディアは勢い余ってその身を床へと叩きつけた。
「痛ッ……。あっ……あ……ぁ……」
そして次の瞬間。
床へ打ち付けた痛みをものともせず、身体を反転させたフリーディアの視界に、部屋の中心へと垂れ下がった荒縄へ首を通すテミスの姿が飛び込んでくる。
刹那。
フリーディアは、これからテミスがやろうとしている事を本能的に直感した。
まるで、この世全ての絶望を溜め込んだかのようにどろりと濁った瞳。そんな瞳を見た途端、フリーディアは全てが手遅れなのだと理解してしまう。
そして……。
ごきり。と。
椅子を蹴る派手な音と共に、くぐもった鈍い音が部屋へと響き渡り、ぎしぎしと軋む荒縄の音だけが部屋の中に木霊した。
「そんな……なんで……なに……が……」
酷く苦しいのだろう。
その場に泣き崩れるフリーディアの前で、テミスは白く透き通っていた顔を醜い紫へと変え、空中で音も無くもがきまわる。
しかし、いくらもがこうと深々と首に食い込んだ縄を捕らえる事は叶わず、遂にはすすり泣くフリーディアの泣き声だけが寒々しい部屋に木霊した。
それから、どれくらいの時が経ったのだろう。
フリーディアは、美しく綺麗な板張りの床を映す自らの視界の端に、一つの異物を見付けて顔を上げた。
「無様な最期だろう?」
「え……?」
その異物は、綺麗に磨き上げられた革靴だった。
いつの間にか、床で泣き崩れるフリーディアの傍らには、見慣れぬ格好で身を固めた一人の男が佇んでおり、空虚な表情で宙に吊り下がるテミスを眺めていた。
「誰かを守るために身を挺して戦い、悪人を打ち倒す……。これは、そんな正義を貫いた愚か者が行き付いた結末だ……」
「貴方……は……?」
「彼……いや、彼女はね。多くの罪なき人を守るため、彼等を己が身勝手な欲望の為に殺さんとする男の命を奪ったのさ。そんな彼女を、人々は赦さなかった」
男は静かに口を開くと、自らを見上げて問いかけるフリーディアの問いを無視して言葉を続ける。
その淡々と紡がれる言葉に感情は無く、無限に広がる虚無の果てから響くかのように空っぽだった。
「人々は彼女から力と剣を奪い、彼女こそが悪人だとして追放したのさ。なにも……悪人を殺す事は無かった……とね」
「っ……!!!」
「結果、残ったのは社会という名の秩序だけだった。そう……彼女は何も守れてなどいなかったのだよ。秩序という大義に踊らされ、何も成し得る事なく消えて逝った」
「貴方……は……」
コツリ。と。
男は足音を一つ立て、フリーディアの前で身を翻すと、静かな微笑みを浮かべてフリーディアと向かい合う。
そして、枯れ果てたかのように空虚な声で言葉を紡いだ。
「俺はただの残響だ。とうの昔に消えて失せるはずだった抜け殻……残り香と言い換えても良い。そんな残響が何故、君の夢枕に立てているのか。奇妙な縁があったものだ」
「奇妙な縁……いいえ。これは……この奇跡は彼女が……テミスが紡いだもの」
「フッ……そうかも……しれんな……」
フリーディアの言葉に、男は皮肉気な笑みを口元に浮かべて小さく頷く。その笑みはテミスが浮かべるものとあまりにもそっくりで、フリーディアは返す言葉を失ってしまう。
そうか……この結末こそが――。
「間違っちゃいけない」
「えっ……?」
目の前で起こる異様な出来事を、フリーディアが飲み下そうとした瞬間。
男の声が静かにそれを否定した。
「これはあくまでも残響。ただの夢物語に過ぎない。現に彼女は、今も君と肩を並べて生きている」
「でもっ……!!!」
「現実を見なさい。未来を……希望に手を伸ばし続けるんだ。そして出来れば……」
言葉と共に、男がゆっくりとフリーディアに背を向けると、辺りの景色が急速に歪んでいく。
同時に、フリーディアは自らの意識が景色と共に白く染まっていくのを自覚した。
だというのに、男はそんな歪みなど存在しないかのように軽快な歩調で、一歩また一歩ろ歩み始める。
「……出来れば、彼女を――」
そして、男が言葉を紡ぎ終わる前に、フリーディアの意識は光に呑まれたのだった。




