663話 夕闇の還り路
ザッ……ザッ……と。
ゆっくりと歩みを進める自らの足音が街道に響き、千々に乱れていたテミスの心にもようやく平穏が戻り始める。
しかし、ファントの町を目指すその足取りは重く、がっくりと落とした肩は哀愁を漂わせていた。
その落胆ぶりはすさまじく、例え今、テミスの容姿を知らぬ者が彼女を見たとしても、巷では勇猛果敢で知られるテミスその人だとは誰も信じないであろう程だった。
「私が何をしたい……か……」
力無く歩を進めながら、テミスは傾きかけた陽を見上げてひとりごちる。
私が何をしたいかなど、問われるまでもなく決まっている。以前の私であれば、迷い無くそう答えただろう。
だが、正しさを見失った今の私には、その問いは酷く難解なものになっていた。フリーディアが月光斬を放って見せた今、私を私たらしめる確固たるものなどこの想いしか無い。
けれど……。
「想いだけでは……どうしようもないじゃないか……」
橙色の光を放つ日に手を伸ばして、テミスは今にも泣きだしそうな声で言葉を零す。
悪が憎いと叫んだところで、戦う力が無ければ何も解決はしない。
だからこそ、あの自称女神は私に強大な力を持たせ、この世界へと降り立たせたのだろう。
親も親類も……友も、知り合いすら居ない私が、この世界で為すべきを為せるように。
「ハッ……いっその事私も……連中のようになれたならばいいのにな……」
テミスは、今まで悪であると斬り倒してきた者達の顔を思い浮かべ、吐き捨てるように嘲笑を浮かべた。
それができれば……連中のように思考を止め、己が欲望の為だけに力を振るう事ができればどれ程楽だろうか。
だがそんな醜態は、私の心が決して赦さない。
これは復讐なのだ。あの時。罪を犯したあの男の命を切り捨てた結果、正義の名の下に屠り去られた一人の男の。
「ならば何故……私はこんな力を……」
足を止め、嘯く。
この身に宿る人知を超えた力は、何の為に在るのだろうか?
血の滲むような努力と研鑽の末、多くの物を犠牲にして至る奥義を、私は幾つも与えられている。
この力が、私がこの世界に何も持たぬが故に与えられた、補助輪のようなものだというのならば、補助輪だけで切り拓ける時点で、明らかに役目を超過しているだろう。
「っ……! いや……」
もしも……もしも仮に。その先が在ったのなら?
この与えられた能力をいわば補助輪だと喩えるのなら。
今の私が、過ぎた補助輪の力に頼り、真に力を扱えていないというのなら。
補助輪を外した先……技の原理や成り立ち知り、自在に扱う術があるのではないだろうか?
「ぁ……」
そう考えた瞬間。テミスの身体を痺れるような感覚が貫いた。
この力は、常に私が求める結果だけをもたらしてきた。もしもその術利の全てを解き明かし、完全に理解し、扱う事ができたのならば。
胸の内に思い描いたイメージを投射し、顕現させるのではなく。私が知るその結果に行き着く道筋を解き明かせたのなら。
その時初めて、私はこの力を私の力として認める事ができるのではないだろうか?
「そうか……そうだっ……!!」
テミスはドキドキと高鳴り始めた胸の鼓動を感じながら、留めていた足を力強く踏み出した。
例えこの力が、忌まわしく呪われた物だとしても。
私の血も汗も通わぬ、ただ与えられただけの紛い物だとしても。
「力は力だ……ッ!! 使い方など、いくらでもあるッ!!」
血に塗れたフリーディアの剣の柄を固く握り締め、テミスは遠くに見え始めたファントの防壁を見据え、足早に歩を進める。
もう迷いは無かった。
この身に宿る忌まわしき力を手放す事も、だからといって、私には何も無いと腐る事など無い。
それはきっと、険しい道になるのだろう。
だが、その痛みこそが私が望んだものだ。
私がテミスとしてこの世界で生きるために、避けては通れぬ痛みなのだ。
「クク……私の頭も虫が良いヤツだな……」
ヒャウンッ。と。
そう呟いてテミスは一閃、血に塗れたフリーディアの剣を振るうと、まだ幾ばくか乾ききっていない刀身の血を払い飛ばす。
先程までは、あんなに虚無と絶望に塗れて、考える事を放棄していたくせに。
胸の内で答えが出た途端、やるべき事をあれやこれやと捻り出してくる。
「そうだな……。今までさんざん頼れ頼れと言われてきたんだ……。いい加減認めるとしよう。私は独りでは事を為せないと」
そうだな……。
まずはマグヌスにでも、私の書類仕事を押し付ける所から始めようか……。
いつの間にか、間近まで近付いたファントの防壁を見上げながら、その目に爛々とした光を宿したテミスは、不敵な笑みを浮かべて更にファントへ向けて歩を進めたのだった。




