661話 空っぽの心
ドシュウッ!! と。
その一閃が閃いたのは突然の事だった。
地面に串刺しにした男の瞳を切り裂くべく、テミスがゆっくりと大剣を持ち上げた瞬間。
テミスですら反応できない程の超スピードで放たれた剣閃が、瞬時に男の首を刈り取ったのだ。
「全く……何をしているんだい? 君は……」
そんな離れ業を為した犯人にテミスが視線を向けるよりも早く、剣を手にしたルギウスがため息と共に前へと進み出る。
しかし、その言葉にテミスは持ち上げた剣を静かに肩へ担ぐと、ルギウスへどろりと濁った光の無い瞳を向けて口を開く。
「お前こそ、何をしている? 私はこの男を赦したのだ。だというのに、殺してしまうなど……」
「この惨状が赦しだって? ……冗談じゃない」
ルギウスは浮かべていた微笑を消し去ると、耐えかねたかのようにテミスの言葉を遮った。
こんな物は赦しではない。ただの無意味な拷問だ。
胸にせり上がる嫌悪感を呑み下しながら、ルギウスはテミスを睨み付けて言葉を続ける。
「僕は君がどれだけ人を殺そうと咎めはしない。僕だって魔王軍の為、数えきれないほどの人間達を殺してきた……同じ穴の狢さ。けれど」
言葉と共に、ルギウスはテミスの間近まで歩み寄ると、その切れ長は目で鋭くテミスを睨み付けた。
「何だい? その体たらくは。誇りも無ければ信念も感じられない。君は誰だ? まるで別人だ……本当に君はテミスなのか?」
「フ……別人……か。確かにそうかもな」
「なに……?」
テミスは自嘲気味な笑みを浮かべると、肩に担いだ剣を下してルギウスに応えた。
私の心は何一つ変わってなどいない。だが、能力を持たない私など、本当にこの世界のテミスであると言えるだろうか?
この世界を生き、切り拓いてきたのは全てこの能力だった。魔王との対話が叶ったのも、軍団長となり仲間ができたのも、幾度となく窮地を切り抜け、悪党を切り捨てる事ができたのも全て、あの忌まわしい女神から与えられた能力無しでは成し得なかった事だ。
だが、私は気付いてしまった。これは汚れた力だと。
フリーディアのように絶え間ない研鑽の末に手に入れた力でも、魔族たちのように生まれながらに秀でた種としての力でもない。
この身にも、この世界にも過ぎた力を、ただ与えられただけなのだ。
「なぁ……ルギウス」
「……なんだい?」
短い沈黙の後、まるで疲れ果てたかのように掠れた声を紡いだテミスに、ルギウスは静かに相槌を打つ。
この男は、本当に得難い友だ。私は全てを無くしたというのに、そんな惨めな女の言葉に、未だこうして耳を傾けてくれる。
その事実に心から感謝しながら、テミスは絞り出すように言葉を続けた。
「私が振るってきた力は……偽物だったよ……」
「力……? 察するに、月光斬の事だろうが――」
「――いいや。全てさ。月光斬も何もかも……この身に宿る魔力でさえ、私はただ与えられただけの存在だ」
そう。私はただ、履き違えていただけの道化だ。与えられた強大な力を己が物だと錯覚し、努力を放棄して己が目的の為に振るい続けた。
こんな滑稽な事があるだろうか? 与えられた力が無ければ何もできない、無力な存在だというのに。
「フゥ……やれやれ。そんな事か」
「そんな事だと?」
「あぁ。事情を知らない者ならば兎も角、この僕が気付かないとでも思っていたのかい? 本質こそは掴めていなかったけれど、とっくに気が付いていたさ。君が振るうその強大な力が、努力や研鑽によって得たものでは無いなんてことはね」
テミスの独白を聞くと、ルギウスは呆気に取られたように目を見開いた後、小さくため息を吐いて剣を収め、小さく唇を歪めて笑みを作ると再び口を開く。
「君がこれまでに見せた数々の技はどれも、その道を極めた者のみが扱える奥義のようなものだ。だというのに、君自身が扱う剣は技に比べてとても拙い。これは敵方の冒険者将校にも言える事だけれどね。だから、君の身の上を聞いて納得したくらいさ。……この世に神という存在が居るのならば、異常にも思えるその強さも頷ける……ってね」
「っ……!! 馬鹿な……私はッ……!!」
まるで世間話でもするかのような軽さで語ったルギウスに、テミスは思わず言葉を詰まらせる。
私は今、私がこの世界で成してきたことすべての根幹を揺るがす程の真実を、この男に告げたはずだ。だというのに、何故こんなにも当り前であるかのように語る事ができるのか、まるで理解ができなかった。
ルギウスは猛者揃いの魔王軍で軍団長を務めるほどの男だ。そんな男が研鑽を積んでいないはずが無い。
「フッ……難しく考え過ぎなんだよ。君は。どんなに強大であろうと、如何な手段で得た物であろうと……力は力。ただそれだけさ」
ルギウスは驚愕するテミスの肩に手を置くと、静かに微笑んでそう告げるのだった。




