660話 壊れたセイギ
「なんなのだ……この女はッッ……!!?」
絶望に心を塗り固められながらも、男は辛うじて、胸の内に灯る怒りと憎しみを奮い立たせて、掠れた声で呟いた。
しかし、そんな芸当ができたのもひとえに、男が持ち得る『隊長』としての矜持のお陰だった。
目の前で部下達を切り刻み、まるで愉しむかのように頬を歪めてその様子を眺めるテミスを睨み付けながら、男は全身に力を込めて、一振りの剣によって地面に縫い留められた己が体を起こさんと奮闘する。
「……。止めておけ。そんな事をすれば、お前は間違い無く死ぬぞ?」
「黙……れッ!! この外道ッ!! よりにもよって俺の目の前でこんな事を……こんな事をされて黙っていられるかッ!!!」
そんな男に、テミスはただ紅の瞳だけを向けて忠告をする。しかし、男は獣のようにそう喚き立てるとより一層激しく手足をばたつかせ、胸を貫く傷から血潮を溢れさせる。
「フム……」
「ガ……ァッ……!!?」
「何が、こんな事なのだ? お前は何故、そこまで怒り狂っている? 自分の命が惜しくないのか?」
だが、テミスは小さく息を吐くと同時に片足を上げ、男の背を踏みつけて拘束すると、その顔を覗き込んで問いかけた。
その問いに男は、顔を怒りで歪めて怒鳴り付ける。
「黙れ卑怯者ッ!! これ程までに力の差がありながら弄ぶような真似をッ……!! お前には誇りと云う物が無いのかッ!?」
「卑怯……卑怯……ね……。名乗りもせず、姿さえ見せずに矢を射た自分達の事を棚に上げて責められてもな……」
「ッ……!!! ならばいっそ、一思いに殺したらどうだッ!!」
「それはできない」
テミスはただ淡々と、足元で喚き立てる男に対し、平坦な声で答えを返す。
そこには怒りや憎しみといった感情は一片たりとも籠っておらず、男が激昂している行為自体が、テミスにとっては何の感慨も湧く事の無いただの作業であると物語っていた。
「だが……そうか。信賞必罰ともいう……確かに、罪には罰が必要だ。フリーディアの奴も悔い改めさせるべきだと言っていた」
「な……?」
「フム……ならば、己が罪に死を望むというお前達はどうすべきか……」
「お前は何を……言っているんだ……?」
自らを地面に踏み付けたまま、ブツブツと呟きながら思案を始めるテミスに、男は強烈な恐怖と忌避感を感じて声上げる。
さながらその感覚は、決して開けてはならない呪われた箱を開いてしまったかのようで。
その口から垂れ流される悍ましい思考を聴きながら、男の心は恐怖と絶望のどん底へと緩やかに沈んでいく。
「よし……ではこうするとしよう」
「待っ……!!!」
パチン。と。
テミスは何か妙案でも思いついたかのように指を鳴らすと、朗らかな笑みを浮かべて大剣を肩に担いだ。
そして、足元に横たわる男が静止の声をあげる間も無く、一瞬にしてその姿が掻き消える。
次の瞬間。
男の眼前に広がったのは地獄の光景だった。
「ひぎゃああああァァァァッッッ!!!? 足ィィィィッッ!! 痛てぇッ!! 痛ェェェッッ!!」
「……ッ!? 嘘だ……何で動かない……? 俺の腕……あ……ぁ……嘘だああああああぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッッ!!!」
「うあ……グゥッ……あ……え……? 暗い……見えない……何も……」
再び兵士たちの阿鼻叫喚な悲鳴が響き渡ると、風切り音と同時に血飛沫が舞い上がった。
しかし、テミスの宣言通り兵士たちが屍を晒す事は無く、ある者はだらりと垂れ下がった自らの動かぬ両腕を前に絶望の叫びをあげ、ある者は立ち上がろうとしてもそれが叶わず、ズリズリと地面を這い進み、そしてある者は眼球を切り裂かれ、まるで亡者のようにヨタヨタと蠢いている。
その光景はまさに、地上に悍ましき地獄が顕現したかのようで。それを目の当たりにした男の口からは悲鳴の代わりに、自失したかのようなうめき声だけが零れ出た。
「もうやめろ……やめて……くれ……頼む……」
「うん? これしきで音を上げるとはだらしがないな。四肢と光。お前達が誇り、振りかざす力の根源を断ってこそ、真に悔い改めたと言えるだろう?」
「っ……。ころしてくれ……」
男の声にテミスは再び姿を現すと、澄ました顔に跳ねた血潮を拭いながらその言葉に応える。
だがその直後。
男の口から漏れたのは弱々しい懇願だった。
それは先程までのように怒りや憎しみ、そして覚悟といった艶やかな感情で彩られたものではなく、苦痛に耐えきれず、ただ安らぎを求めた願いだった。
けれど。
「何を馬鹿な事を。お前達は犯した罪を償い、やり直すのだ。自らの死をも望むほどに後悔したのだろう? ならば私はお前達を赦そう」
倒れ伏した男に向け、テミスはまるで聖母かの如く微笑みながら言葉を紡いだ。
同時に、振り上げられた大剣が空を切り裂き、甲高い音と共に振るわれる。
「化け……物め……」
ぐらりと歪む視界の中、男は薄れゆく意識と共に恨み言を口にする。
しかし、男の目が映した最期の光景は、悍ましくも美しい歪んだ笑顔なのであった。




