659話 這い寄る絶望
一方その頃。
ファントの辺境では、男たちの悲痛な叫びが飛び交っていた。
その中心では、地面に深々と突き刺さった剣に縫い留められた一人の男が、息も絶え絶えに横たわっている。
「隊長ッ!!! 隊長ォォォォッッ!!!」
「剣ッ!? 早くッ!! 早く抜けッ!!」
「馬鹿ッ!! 抜くなッ!! 隊長を殺したいのかッ!?」
隊長と呼ばれる男を囲んだ男たちは、傍目から見てもわかる程に混乱を極めていた。
横たわったその身体に縋り付いて涙を流す者や、突き立った剣をがむしゃらに抜こうとする者に、それを止めるべく怒声をあげながら組み付く者。
その場の誰もが眼前の男を救わんと衝突し、もがき苦しんでいる。
「馬鹿……共……が……すぐに……逃げ……」
唯一。
地面に縫い留められながらも、必死で声を紡ぐ隊長の声は男たちの怒声に紛れて届く事は無く、男たちは自らが慕う隊長のを救う手立てを探し、ああでも無いこうでも無いと議論を繰り広げていた。
「クス……」
そんな男たちの姿を、傍らから悠然と眺める影があった。
疎らに生えた木にその背を預けた影は、長く美しい白銀の髪を風になびかせながら、目の前で起きている動乱が、まるで喜劇であるかのように笑みを揺蕩えている。
男たちがその女の存在に気付いたのは、彼女が彼等の動乱を眺めはじめてから、優に十分は経過したころだった。
「っ……!? 誰だッ!? ……いや、誰でもいい! 手を貸して……く……れ……」
一番初めに声をあげたのは、男たちの中で最も冷静で、ただ一人周囲の警戒に当たっていた者だった。
しかし、警戒から上げた言葉は即座に懇願へと変わり、最後には懇願の声さえも掠れて消える。
「馬鹿野郎ッ!! こんな時に何を突っ立ってやが……ん……。っ……!!!! テメェはッ!!!」
一人がその『異常』に気が付けば、それが彼等に伝播するのに時間はかからなかった。
凍り付いたように動きを止めた仲間に気が付いた男が怒声をあげ、男たちの視線が悠然と微笑むテミスへと釘付けになる。
「ん……? どうした? もう終わりか? 続けて貰っても構わんのだぞ?」
「クッ……!!! 何でここまで来てッ!!」
「隊長が狙いかッ……!! そんな事……絶対にやらせるかよッ……!!」
愉し気に微笑むテミスを前に、男たちは即座に剣を抜き放つと、地面に縫い留められた彼等の隊長を背に立ちはだかった。
「何だ……来るのか」
「ッ……!! 全員でかかるぞッ!! せめて……せめて隊長だけでもッ!!」
「応ッ!!!」
剣を構え、決死の気迫で怒声をあげる男たちを前に、テミスはゆったりとした動きで背中を預けていた木から離れると、漆黒の大剣を抜き放って不敵に微笑む。
その微笑みには一片たりとも邪気は含まれておらず、その手に剣さえ握っていなければ見惚れてしまいそうなほどに美しく柔らかなその笑みを前に、男たちは必死で固めた強固な覚悟に一筋の希望を見せた。
「奴め……俺達を舐めてやがる……」
「っ……!! タダで殺されてやるかよッ……!!」
彼等はロンヴァルディアに蠢く闇の中で、暗殺の腕だけを頼りに生き抜いてきた猛者たちだった。
故に。相手があのテミスだと認識していても、満ち溢れる油断を隠そうともせず、無防備に歩み寄るその姿に、彼等の心は同じ未来を予測する。
この攻撃を仕掛ければ、数人は命を落とす事になるだろう。だが確実に、眼前の敵の命を刈り取る事ができる……と。
「っ……」
「フ……」
必勝を胸に誓った男たちが口元に笑みを浮かべ、微笑みを浮かべながら歩み寄るテミスを囲むように広がってにじり寄る。
だが、男たちの包囲が半周に至って尚、テミスはただ微笑むだけで、携えた大剣を構える事すら無かった。
「ウォォォォォッッッ!!」
「っ……」
その雄叫びは、唐突に上げられた。
テミスのちょうど右側面。一番深く攻め入った男が吠えると、テミスの視線が反射的に吸い寄せられる。
同時に、その僅かな隙を穿つようにして、テミスを取り囲んだ男たちは、抜き放った剣を一斉に振りかざし、囲いで圧し潰すようにして殺到した。
しかし。
「グッアアァァァァッッ!? 腕がッ……アアアアアアアッッ!!!」
「ガッ……アアアアァァァァァッッ!!」
「な……に……っ……!?」
テミスを倒すべく殺到した男たちの塊の中から、血飛沫と共に次々と苦悶の悲鳴が木霊する。
直後。
地面へと縫い留められ、その光景を唯一傍らから眺めていた隊長が、驚愕の声と共に息を漏らした。
その視線の先、地面に横たわる隊長の傍らでは、携えた大剣の刀身を僅かに血で湿らせ、柔らかな微笑みを浮かべたテミスが、悠然と佇んでいたのだ。
「何故……何故……だ……?」
「……?」
「それほどまでに……力の差がありながら……何故……殺さないッ!?」
まるで耐えかねたかのように、隊長はしゃがれた声でテミスへと問いかける。
今や、テミスを取り囲み、突撃を敢行した男たちは皆地面へと倒れ伏し、各々がその身を襲う耐え難い激痛に苦悶の声をあげていた。
「フフ……気にする事は無い。一身上の都合さ……」
足元から響いたその問いに、テミスは相も変わらず柔らかな微笑みを浮かべながら、平坦な言葉でそう告げたのだった。




