59話 対岸の焔
午後の執務室には、穏やかな空気が流れていた。プルガルドの一件で溜まりに溜まっていた書類も片付き、書類の山が積まれていた場所では、一杯のコーヒーが温かな湯気を立てていた。
「はむっ……ふぅ……これぞまさに、人間らしい生活というヤツだな」
遠くから聞こえる訓練場の雄たけびを聞きながら、まったりと優雅にコーヒーを啜る。全ての仕事を手早く片付けた者にのみ許される特権だ。
「どれ。もう一つ」
そう呟いて、テミスは傍らの更に盛られた赤く小さな実を口へと放り込む。このアリーシャが差し入れてくれた木の実はローグの実と言うらしい。サクランボの片側のような姿をしたこの実はとても甘く、瑞々しい果肉からじゅわっと溢れる果汁の感覚がたまらない逸品だ。
「ほふぅ……幸せだ」
と、万感の思いを込めてテミスは呟いた。この世界に流れ着いてからしばらく経つが、こんなにも満たされた日々を過ごしたのは生涯を通じて一度も無いだろう。
「テミス様。新編したファント守備隊からの報告書です」
「ん」
「特に大きな問題は無く、皆新たな編成にも慣れつつあるようです」
最奥に配置されたテミスの机の右横。律儀にも壁際に配置された机から立ち上がったマグヌスが、報告をしながら書類をこちらへ寄こしてくる。
「ですが、増やした人員に対して装備や備品が足りないらしく。追加発注の許可書と意見書が提出されています」
「意見書? それに、各部署に自由予算を割り振ったから許可書は廃止したはずだぞ……。あるなら予算追加の申請くらいかと思ったが……」
「……まずは、ご確認された方がよろしいかと」
「それもそうだな」
答えてからテミスは、マグヌスから受け取った書類に目を落とす。せっかく予算を組んだと言うのに、さては臨時収入か何かと勘違いして宴会でも開いたか?
「これはっ……」
しかし、文書に書かれていた内容はテミスが予想していたものでは無かった。
「素晴らしい……まさか、こんなに早く効果が表れようとは」
「テミス様……」
受け取った書類を握り締め、感動に肩を震わせるテミスにマグヌスが気遣わし気に言葉をかけた。
「採用だ! ついでに軍部の予算から武具のメンテナンス用の資材を付けてやれ」
「はっ? しかし……よろしいのですか?」
「何がだ?」
満足気な大声と共に、満面の笑顔を浮かべたテミスが書類をマグヌスへ戻す。しかし、受け取ったマグヌスの顔はテミスとは真逆で困惑していた。
「軍部備蓄の武具ですよ? もしまた連中が攻めてくることがあれば……」
「構わんさ。その為に資材もつけるのだからな。それに警備兵と言っても有事の際は共に戦うのだ。必要以上に分ける必要もあるまい」
「はぁ……」
そもそも、武器庫に眠っている武具など日の目を浴びることはめったにない。大半の兵士は自分用の武具を揃えているし、せいぜい使うとすれば訓練や新兵に与えるくらいだろう。
「フッ……流石だな、バニサス。よく見ている」
マグヌスが自らの席に戻っていくのを眺めながら、テミスは満足そうに意見書の執筆者の名を呟いた。恐らく彼だからこそ、気楽に意見書を出せたのだろう。許可書が同時に提出されたのが警備隊の意向を如実に表していた。
「これを機に、さらに活発な意見が出てくると良いのだがな」
テミスは大きく伸びをしてから、目を細めて窓の外に広がるファントの町を眺めた。カズトの軍による復興から働き方改革とここまで急ピッチで進めてきたが、ルギウスとの盟約もできたし、そろそろ落ち着ける頃だろう。
「ま……デスクワーク向きでないのは解っていたが……頑張っている方か」
視線をもう片側、今やサキュドの部屋と化している軍団長私室へ続く戸の横に設えられた机へと向ける。その使用感の薄い小奇麗な机の主は居らず、今もどこかで気ままにブラブラしているのだろう。そもそも、効率を考えるのならば作業机は3つとも近くに配置するのが良いのだろうが、何故か二人とも今の位置を頑として譲る事は無かった。
「やれや――」
「テミス様ッ!!」
一息ついてから、再びコーヒーへと戸を伸ばしかけた瞬間。けたたましい音と共に執務室の戸が開かれて血相を変えたサキュドが飛び込んできた。
「……今度は何だ?」
しかし、テミスの中でサキュドの報告の重要度は著しく低下していた。何故なら、例の潜入任務の憂さ晴らしのつもりか、血相を変えて飛び込んできては服が臭いだの腰が痛いだのと、下らない事ばかりを報告してきたからだ。
「ちょ……今回は本当だって! 緊急の出撃要請よ!」
「何? 見せてみろ」
焦りながら手に持っていた紙束を突き出したサキュドに、テミスの眉がピクリと跳ねた。幾らサキュドであっても、言って良い冗談と悪い冗談の区別はつく筈だ。
「緊急。ラズールが大規模な侵攻を受けて――。待て、ラズールだと?」
席を立って近付いてきたマグヌスにも伝達できるよう、サキュドから受け取った書類を読み上げていたテミスの声が突然裏返る。
「馬鹿な! ラズールは第五軍団、ルギウスの旗下ではないか。奴め……あれだけ自信満々に言っておいてこれか?」
奴との盟約を結んだ時、ルギウスは間違いなく自らの旗下で戦闘が起きる事は無いと言い切った。つまるところ、ルギウスの想定外の何かが起こったという事になる。
「失礼いたします! 第十三独立遊撃軍団長、テミス様はお見えですか!?」
続きを読み上げようと書面に目を落とした瞬間、バタバタという派手な足音と共に再び執務室の扉が開かれた。
「テミスは私だ。何事だ?」
「ハッ! 魔王ギルティア様より緊急の要請をお届けに参りました!」
「何……? 要請なら今受けているが……どう言う事だ?」
そう返しながらテミスは書面から視線をあげて、来訪者の姿を確認する。確かに見慣れぬ顔ではあるが、着ている服には魔王の近衛である第一軍団の紋章が刻まれている。
「軍団長。私が持ってきたのは第五軍団からです。怪我が酷かったため、書面だけ受け取って今は医務室に」
「……なるほど。受領しよう」
サキュドの報告を受け、テミスは納得して首肯する。恐らくは、この二つの要請は同じ内容だろう。受けるのはやぶさかではないが、出撃する以上、ファントを空にするわけには……。
「さて……? 北方戦線。ラズールにて人間軍の大規模侵攻を確認。ここまでは同じか……よって第十三独立遊撃軍団に同地への救援を要請する。ファントの防衛については……なるほど、そう来たか」
二枚の書簡へ交互に視線を配りながら読み上げていたテミスの顔が、不敵な笑みへと形を変える。
「私達の穴を埋めるのは貴官らか?」
「はい。第一軍団旗下第三大隊隊長、アルベルド・マーリンです」
「承知した。マグヌス、サキュド。出撃準備だ」
「了解!」
確認を取ったテミスが頷いて指示を出すと、背筋を正した副官たちが執務室の外へと駆けていく。非番の者を集めて引継ぎをしたとしても、今晩辺りには出れるだろう。
「やれやれ……マーサさんに謝らないとな」
小さく嘆息しながら、テミスは書簡を自分の机へと放り投げ、壁際に飾られている漆黒の甲冑へと足を向ける。
「それと……未確認ですが……一つ。注意せよとギルティア様から言伝が」
「フム?」
事務的な口調でゆっくりと告げられた言葉に、甲冑へと伸びていたテミスの手がピタリと止まる。……あの魔王が私に忠告だと?
「人間軍最強と名高い白翼騎士団の姿が確認されている。奴等は単独で戦う冒険者将校よりも厄介だ。油断なぞしないだろうが、侮るなかれ。と」
「っ…………承知した」
アルベルドから言伝を聞いたテミスの目が見開かれ、甲冑に伸ばされていた手が僅かに震える。ギルティアは私とフリーディアの関係は知る由も無いだろう。故にこれは偶然だろうが……。
「そうか……お前が。居るのか……」
テミスは誰にも聞こえない小さな声で呻くと、甲冑に伸ばしていた手を力なく降ろしたのだった。
2020/11/23 誤字修正しました




