648話 新たな苦悩
数日後。
ファントの執務室では、一束の報告書を手にしたテミスが、苦い顔でうめき声をあげていた。
「……参ったな。まさか、これ程とは」
「ハッ……。私の予測が至らぬばかりにこのような事……申し訳――」
「――謝るな。マグヌス。こんな事、私とて予想外だった」
テミスの席の前に立つマグヌスが、謝罪と共に深々と首を垂れるが、テミスは即座にそれを否定してため息を漏らす。
現状。ファントの町には人が集まり過ぎていた。魔王軍とロンヴァルディアとの戦いで注目を浴びてしまったせいもあってか、それは人間と魔族という垣根を超え、今のファントには様々な種族の者たちが集っている。
人が集えば物や金が動き、経済が豊かになる。しかしその圧倒的な人の波を、つい先日まで『ただの最前線の城塞都市』であったファントは捌き切れずに居た。
「だが、早急に手を打たねばな……。集まるのは何も、善人ばかりではない」
「はい。先の同盟が成ってからというもの、ファントの治安は急速に悪化……衛兵の詰所も手一杯です」
「フン……わざわざ悪逆を働きにこの町に来るとは……。どこぞで野垂れ死んでいれば良いものを」
「テ……テミス様……」
書類の束に目を通しながら、憎々し気に吐き捨てられたテミスの言葉に、マグヌスはまるで咎めるかのような視線と共に言葉を詰まらせた。
「冗談だ。許せ、マグヌス。お前の事だ……むしろ連中の方から私の元へ来るのだから僥倖。なんて思っているのだろう?」
「ハッ……いえッ……確かに、わざわざ出向く手間が省けるとは考えておりましたが……」
「間違いではない。だがな……マグヌス。他者を害する連中など、いっその事居ない方が世の為だ。それに、こうも押し寄せて来られては手が足りん」
テミスは自らの言葉に、まるで心中を見透かされたかと公言するように驚くマグヌスへ薄い笑みを向けると、パラパラと捲っていた書類を机の上に投げ出して再びため息を吐いた。
「いっその事、捕らえた連中を片っ端から殺していければ楽なのだがな」
鼻で笑いながら、テミスはぞんざいな言葉を吐き捨てると、傍らに置かれたコーヒーを手に取って口へ運ぶ。
施設も経験も、何もかもが足りていなかった。
辛うじて、先の同盟で白翼騎士団と第五軍団の手を借りられるお陰で、人手だけは及第点に達してはいるが、悪人を引っ立てた所で捕らえる場所が無ければ話にならない。
「町への入場に規制を設けてはいかがでしょう?」
「……無駄だよ。それをした所で、防壁の外に難民キャンプが如き野営地が出来上がるだけだ。そんな有様では、町の住民はおちおち外も出歩けん」
「っ……確かに……」
「ハッ……こんな時、プルガルドがあれば楽だったのに……」
解決案を模索しながら、テミスはかつて戦いを繰り広げた地であるかの町を、ぼんやりと思い浮かべた。
あそこの廃坑はかつて、人間を虐め殺す悪趣味な享楽施設があった。
以前十三軍団が統治を任されていた時には、その入り組んだ地形を利用して、訓練場代わりに使っていたのだ。
しかし、魔王軍を離れた今。プルガルドはテミス達の手から離れ、今はリョースがその後を治めている。
「リョース殿に……魔王軍に打診してみますか?」
「止せ。ただの戯れ言だ。無いものねだりをしても、意味など無いのだがな」
「ハッ……」
テミスの軽口をマグヌスは額面通りに受け取って実直に答えを返す。しかし、テミスはなれた態度でそれをあしらうと、再び机の上の書類に視線を向けて深く考え込んだ。
事ここに至っては、最早取るべき道は二つに一つだ。
一つは、この町で罪を犯した者に対し、それに応じた罰を与えて開放する道だ。
無論。以前の世界のような懲役刑を課す事ができない現状、ファントへの立ち入りを一定期間ないし永遠に禁じた上で、身ぐるみを剥いで町の外へ放り出すくらいしか方法は無い。
だが、このやり方では、ただ臭いものに蓋をしただけだ。
身ぐるみを剥いだと言っても、こんな世の中では手持ちのものの価値などたかが知れている。
この町への立ち入りを禁じたとて、その悪人がまた、別の場所で悪事を働くのは明白だ。
そして、もう一つの道はいたって単純。むしろ原始的とも言えるだろう。
二度と罪を働く事ができなくしてしまえば良いのだ。盗みをしたのならばその手首を、己が力に溺れて罪なき者を嬲ったのであればその腕を落とし、地獄の苦しみを与えてやればいい。
それでも尚、己が罪を顧みないというのならば。更生の兆しなしと断じて殺してしまえばいい。
だが、この方法は現実的とは言い難い。
あくまでこの問題は政治なのだ。テミスが戦場を駆け、己が目で悪だと断じた訳ではなく、伝聞を介して判断をせざるを得なくなる。
そこに他人の目や意思を介在させるのならば当然、冤罪やそれを利用する輩も出て来るだろう。
「いや参った……お手上げだ……」
ぎしり。と。
テミスは煮詰まった脳味噌を、その身体ごと背もたれへと投げ出すと、急激に力の加わった椅子が悲鳴を上げた。
その時。
「テミス? 居るかしら?」
控えめなノックと共に執務室の戸を開け、その隙間から中を窺うように首を突き出して、ひょっこりとフリーディアが姿を現したのだった。




