647話 心砕く刃
「ヒッ……ヒィィィィィィィィィッッ!!!」
高笑いと共に、テミスが言葉を放った瞬間。
ガタガタと己が体を震わせながらも、なんとかその場にとどまっていたボーゲンの口から悲鳴が溢れ、その背をテミスへ向けて脱兎のごとく駆け出した。
死にたくない。
千切れ飛ぶ豪奢な装飾や、上質な靴が脱げた事にすら構う事なく、文字通り全てをかなぐり捨てて逃げ出すその姿からは、見る者全てにそんな彼の必死な思いを伝えていた。
だが……。
「何処へ行く?」
「うわぁぁぁっ!!?!?」
必死の逃走も虚しく、目にも留まらぬ速さで悠然とその先へと回り込んだテミスに迎えられ、ボーゲンは恐怖と絶望に泣き叫びながら、逃げる方向を変える。
そんなやり取りを数度続けた後。
遂にその心が折れ砕けたのか、ボーゲンはその場にひざま付き、自らの頭を抱いて叫びをあげた。
「どうかッ!! どうかお許しくださいッ!! 知らなかったんですッッ!」
「ん……? 何を言っているかわからんなァ……? 何せ私は、見てくれは良くても、中身が伴っていないらしいからな?」
「ハッ……ぐっ……うぁ……」
「ホラ。どうした? 私を泣き喚かせ、奴隷と従えるのだろう? 蹲っていては何もできんぞ?」
喉を詰まらせ、まるで豚の鳴き声のような音を漏らすボーゲンを見下し、だがテミスは嗜虐極まる笑みを浮かべて言葉を吐きかけ続ける。
ボーゲンは他でも、余程横柄な態度を取っていたのだろう。そんな姿を見て尚、周囲の目線が同情の色を帯びる事は無く、その視線はむしろ、彼に更なる絶望を刻み込む事を望むかのように熱を帯びていった。
その視線こそが、テミスの中で彼等の判決を下させた。
「ッ~~~!!! お詫びッ!!! お詫びを差し上げますッ!! 金貨三十……いや六十枚ッ!!」
「…………」
そんな周囲の熱を感じ取ったのか、ボーゲンは体を跳ね起こしてテミスの足元に縋りつき、大粒の涙を流して命乞いを始める。
しかし、テミスがボーゲンの言葉に応える事は無く、ただその姿を冷たい目で見下ろしていた。
「ううぅぅぅぅッッッ!! 金貨百枚ッ!! お願いしますッ!! どうか……どうかご慈悲をぉぉぉ……!!」
「ハァ……」
「う……嘘! 嘘ですッ!! お望みになられるだけ、いくらでもお支払いしますからッ!!」
「……過ぎた額だな」
「へぇっ……!?」
ボソリ。と。
冷え切った視線でボーゲンを見下すテミスの口が動き、呆れたように言葉を紡ぐ。
「お前が私の身柄に出した金は金貨三枚。どうやらお前は、自らの命にその三十倍以上の価値があると言いたいらしい」
「ふぐぅっ……!! うああああ……!!! ごめんなさい! 許してください! 何でも差し上げます! 何でもしますからどうかッ!!!」
「そう言って懇願する者たちに、お前は今まで何と答えた? 何度踏みつけにし、地獄へ叩き落としてきた? そんなお前ならば、私の答えは解るだろう?」
「あああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ…………!!!!!」
切り伏せるかの如く告げられたテミスの言葉に、ボーゲンは絶望に顔を歪ませながら悲痛な絶叫をあげた。
全ての希望が断たれ、万策が尽きたその姿を見て、テミスは漸くその心に絶望が満ち、折れ果てた事を確信してため息を吐いた。
「やれやれ……」
血を流す事無く力を示し、命を奪う事無く悪人を誅するなど、マーサさんもとんだ無理難題を課してくれたものだ。
地面の上に蹲り、まるで子供の様に泣きじゃくるボーゲンを見下ろながら、テミスは胸の中でひとりごちる。
確かに、この姿で居るのは私の望みだ。
戦場を離れ、たとえ偽りの姿であっても、温かな日常を感じたい。
そんな傲慢な私の意図を汲んでくれたからこそ、マーサさんは私に手本を見せてやるべき事を教えてくれたのだろう。
「っ……テミス様……」
「あぁ……連れて行け。三人ともだ」
「ハッ!!」
無言で佇むテミスの前に、誰かから通報を受けたのか数人の衛兵が姿を現して声をかける。それに応えたテミスが、コクリと小さく頷いて指示を出すと、ビシリと姿勢を正した衛兵たちが、機敏な動きでボーゲンと護衛の二人を拘束して連行していった。
「フゥ……。本当にこれで良いのだろうか……」
ため息と共にテミスが衛兵たちの背を見送ると、周囲からは歓声が響き渡り、それを囃し立てるように口笛が鳴り響く。
そんな中を、平然とした顔で元居た場所へと踵を返しながら、テミスは小さな声で呟きを漏らしたのだった。




