646話 最強の給仕
「ウッがァ……なん……」
刹那の後。
地面に叩きつけられた護衛がうめき声をあげ、その唇の端から一筋の血を流しながら立ち上がる。
「フム……やり過ぎたか。やはり難しいものだな……」
「な……なに……?」
「いや、一撃で意識を刈り取るつもりだったのだが……。殺さぬように力を振るうという事が、これ程難しい事だとは……」
ひらり。と。
テミスはその白銀の髪と共に、給仕服のスカートを翻すと、足音を響かせながらボーゲンたちの前に立ちはだかり、不敵な笑みを浮かべる。
「ククッ……この私が、手ずから遊んでやろう。逃げられると思うな? 奴隷売買と略取誘拐の現行犯だ」
「ぶ……ハハハハハハッ!!! ちょうど良い。お前等ァッ!! 公開処刑だ! その生意気な娘に本当の強さというものをわからせてやれ!!」
「フッ……お任せを。泣いて懇願させて見せましょう」
高笑いと共に放たれたボーゲンの命令に、テミスの腕を拘束していた護衛が、下品な笑みを浮かべながら、すらりと腰の剣を抜いて進み出る。
しかし一方で、テミスに投げ飛ばされた護衛は、顔を青くしたままその場に立ちすくんでいた。
「悪ィな。奴隷チャン。これも命令なんでね」
「楽しそうだな? まぁ良いさ。叩き伏せる相手が下種な方が私も愉しい」
「ほざけッ!!」
薄笑いと共に放たれたテミスの挑発に、護衛の男は怒りで顔を歪めて猛然と突進すると、抜き放った剣を大きく振りかぶる。
そして、その様子をただ悠然と立ち尽くしたまま見続けるテミスの肩口へ向けて、全力で振り落とした。
「食らって泣き叫べェッ!!」
「フフ……」
しかし。
全力で振り下ろしたはずの剣は空を切り、護衛の男は無防備な背をテミスに向けて晒していた。
だが、そんな致命的な隙を前にして尚、テミスは微笑を浮かべて佇んだまま動かず、その紅の瞳で護衛の男を見下ろし続ける。
「ォ……ウオオォォォォッッ!!!」
その微笑みすら挑発と受け取ったのか、護衛の男は顔を怒りで真っ赤に染めて咆哮すると、切り下ろした剣を跳ね上げ、下段からテミスへと斬り付けた。
「クク……どうした? また外れだ。こんな街中で素振りか?」
けれど、今度もまた護衛の男が振るった剣は、空しい音と共に空を切り、ニンマリとした笑みを浮かべたテミスが、遂には腕組みをして煽り立てる。
商人の護衛を務めるというだけあって、この男が持つ剣の腕は悪くはない。だが、悪くは無いという程度で、その見た目の通りせいぜい中級冒険者程の者だった。
そんな男の剣が、数多の戦場を潜り抜けていたテミスに通用する訳もなく、護衛の男が次々と繰り出す、時に虚実を織り交ぜて、時には迅さのみを求めた剣技を組み込んだ連撃を、テミスは身に着けた服にすら掠らせることも無く全て躱して見せる。
「それで終わりか? 口ほどにも無いな? 私を泣き叫ばせるのではなかったのか?」
「ぐくっ……!!! ゼェ……! ハァッ……! コイツッ……!! 何なんだ……?」
体を折り曲げ、球のような汗を流す護衛の男に向けて、テミスの冷たい声が向けられた。
その実力差は歴然。剣を向けた護衛の男は勿論の事。傍らでそれを眺めているだけのボーゲンでさえ、二人の間に存在する隔絶たる力量の差を目の当たりにしていた。
「あ……あぁ……。思い……出した……」
遠巻きにその様子を眺めていた野次馬が湧きたつ中、最初にテミスに投げ飛ばされた男が、ぶるぶると震えながらうめき声を漏らす。
その恐怖と後悔に見開かれた目はテミスに釘付けになっており、腰でも抜けたのか、男はずりずりと這いずるように後ずさる。
「な……何だ!! 何を思い出したというんだ!?」
「ヒィッ……!? ボ……ボボ……ボーゲンさま……」
「さっさと答えんかァッ!!」
ボーゲンは完全に戦意喪失した男の胸倉を掴み上げると、その力の抜けた体を激しく揺さぶりながら問い詰めた。
すると、護衛の男は為されるがままに身体を揺さぶられながら、涙すら流して弱々しく口を開く。
「も……元魔王軍十三軍団長にして、この町の守護者。黒血の悪魔ことテミス……」
「そ、そいつが何だというのだ!! そんな奴がこんな所に居る訳が無いだろう!!」
「でも……でも……同じなんですよ。白銀の髪に血のように紅い瞳。そして……全てを嘲笑うかのように歪んだ悪魔みたいな嗤い顔ッ――」
「――ごァっ……!!! うぐあああああぁぁぁぁぁ……ッ!!」
全身をがたがたと震わせながら、男が涙声で答えた瞬間。
テミスと相対していた護衛の男が、絶叫と共に彼等の足元へと転がり込み、その場で顔を歪めてのたうち回る。
「ハ……あ……うぁ……」
「バババ……馬鹿なッ!! あり得ん! そんな……事ッ……断じてッ!!」
自らの護衛が打ち倒された光景に、ボーゲンはもう一人の護衛を掴む手を離し、喉を詰まらせてうわ言のように呟きながら、一歩、また一歩と後ずさる。
その恐怖と絶望に必死で抗う視線の先で、ゆったりと両腕を広げたテミスが、満面の笑みを浮かべて、狂笑と共に口を開いたのだった。
「ククッ……アハハハハハッ!! それで? 誰を奴隷にするだと?」




