645話 母の言葉
「殺さずに叩き伏せる……でしたよねッ!!!」
テミスはボソリとそう呟くと、一気に体を捻って襟首を掴んだ護衛の身体を巻き込むように引き寄せ、投げ飛ばすようにして地面へと叩き付ける。
苦悶の声が響き、石畳の上に僅かに積もった埃が舞い上がる刹那。テミスは自らの役目を強く思い返していた。
それは、テミスにとって非常に難しい事だった。
己が肌の上を這いずる虫を、誰しもが反射的に払わざるを得ないように。
目に見えた悪人を前にして、テミスが本能とも言うべきその衝動を抑え込むのは至難の業だ。
だが、そんな並外れた努力も、テミスが村娘で居るためには必要な事なのだ。
事の発端は数日前。それはテミスが、店の門番を担うようになった理由でもあった。
「大馬鹿じゃないのかい!!!? アンタはッッッッ!!!」
「何が馬鹿な事かッ!!! こいつは……こいつはアリーシャをッ!!!」
「ちょっ……テミス! 落ち着いてッ……!! 落ち着きなさいったらッ!!」
轟雷の如きマーサの怒声が店中に響く中、怒り狂ったテミスの甲高い叫びがそれを切りいた。
その手には一振りの剣が握られており、偶然その場に居合わせたフリーディアや黒銀騎団の兵達が居なければ、こうして取り押さえておくことすらできなかっただろう。
それほどまでにテミスの怒りと殺意はすさまじく、その身に纏った給仕服だけが、つい先ほどまで彼女がこの店で働いている給仕であることを物語っていた。
まるで戦場にでもいるかのような雰囲気を纏いながらも、身に着けているのはただの給仕服。そのちぐはぐな姿を見れば、この町の住人の誰しもがこう思う事だろう。
――いったい何処の馬鹿が、何をやらかして『眠れる剣姫』を叩き起こしたのか。と。
そしてその理由は単純にして明白。この店で飯を食えない事に腹を立てた一人の男が、対応していたアリーシャを殴り付け、席に着いた客を脅して強引に押入ろうとしたのだ。
無論。そんな蛮行が眼前で行われる事をテミスが許すはずも無く、即座に配膳していたトレイを剣へと変え、一直線に男へと斬りかかる。
同時に、その一閃が男の命を刈り取るものだと察したフリーディアが止めに入り、大惨事ともいえるこの状況が出来上がっていた。
「離せお前達ッ……!! クッ……邪魔だフリーディアッ!! 殺してやるッ! こういう奴を叩き殺す為にッ……!! 私はッ……!!!」
「お願いだから落ち着いてテミスッ!!」
「クゥゥッ……!! そ、そのご命令には従えませんテミス様ァッ!!」
その混沌とした状況の中で不幸だったのは、怒り狂うテミスを見て尚退かぬほど、元凶である男の察しが、壊滅的に悪かったことだろう。
冒険者風の男が提げる剣には年季が感じられ、彼の腕が鈍らではない事を物語っていた。だがその自信が、自尊が、誇りが、今は彼自身の運命を破滅へと加速させている。
「ハッ……女給風情が吠えやがる。この俺を殺すだぁ? やれるものならやってみろってんだ! その細っこい腕でよォ!!」
暴走するテミスを見て侮っているのか、男は騒動から避難した客が座っていた席にドカリと腰を下ろすと、火に油を注ぐかの如く挑発を続ける。
「泣いて詫びても許さんぞッ!! 望み通り苦しみ抜かせて殺してやるッ!!」
「――っぁッ……!! 貴方も挑発しない!! 死にたいのッ!?」
「何言ってんだ……アンタ等も放してやれよ。そういう奴は一度、身の程ってモンを知るべきだ」
しかし、フリーディアの必死の忠告も空しく、男はにやにやと下卑た笑みを浮かべながら挑発を続け、それに応じたテミスが拘束を破ろうと一層激しく手足をばたつかせる。
最早、店の中はてんやわんやで、食事を楽しんでいた客たちは、床に倒れ伏していたアリーシャを連れて壁際まで下がって居た。
「だから身の程を刻み付けてくれると――」
「――喧しいッ!!!! いい加減にしな!! どっちもッ!!!」
再び、ビリビリと店中を震わせるマーサの怒号が響き渡り、店内の喧噪を奪い去っていった。
同時に、怒り心頭といった表情で歩み出たマーサが、フリーディア達に拘束されたテミスの前に立ち、静かに口を開く。
「……どこの世界に、喧嘩に剣を取り出す給仕が居るんだい? 見な……アンタのせいで店は滅茶苦茶。お客さん達も大迷惑さね」
「っ……!! だけどッ!!!」
「だけどもカカシも無いんだよ!! アンタが暴れたせいで、お客さんにかけなくていい迷惑をかけたのは事実なんだ。反省しな」
抗弁しようと口を開いたテミスを制して、マーサは叱りつけるように言葉を叩き付けた後、背を向けて乱入者の男へと向き直る。
「さて……この子も大馬鹿だけど、問題はアンタだね」
「へっ……何が問題だ? 俺は客だぜ? 躾がなっちゃないんじゃないのか?」
「……。フ~……。いいかい? テミス。良く見てな。こういう手合いには、こうするんだよッッ!!!」
マーサはチラリとテミスに視線を送ってそう告げると、相も変わらず軽薄な笑みを浮かべている男の顔面に、鋭く拳を叩き込んだ。
そして、その渾身の威力に吹き飛ぶ男に追い縋ると、憤怒の形相で襟首を掴んで店の床へと叩きつけた。
「ウチの娘たちに何してくれてんだいッ!!! 閉店だってのが聞こえなかったか!? えぇッ!?」
「ブッ……ぐあッ……!! このクソアマァッ!! ゴぁッ……!?」
「フン……ごろつき風情が吹くんじゃないよ。いいかい? こういう輩は剣で斬るんじゃない。拳で叩き伏せてから、衛兵さんに突き出すんだよ」
マーサはうめき声をあげる男に拳をめり込ませて止めを刺すと、不敵な笑みを浮かべてテミスを振り返り、静かに口を開いた。
「罰するのは給仕や女将の仕事じゃないだよ。衛兵さん達の仕事さね。だからね……その服着てる間は、殺すのはアンタの仕事でもないさね」
「っ……。ごめん……なさい……」
その言葉に、テミスは力無く項垂れると、手した剣を手放して呟くように応える事しかできなかったのだった。




