643話 騒がしくも、忙しい日々
ファントが融和都市として独立し、魔王軍・ロンヴァルディア双方と和睦を結んでから数週。
人間と魔族にとって、唯一の門戸となったファントは更に活気付き、商人や冒険者などの噂を聞きつけた者たちが、方々から押し寄せていた。
無論。ファント随一の宿屋であるマーサの宿屋も例外ではなく、客室は連日満室で、階下の食堂兼酒場も、大層な賑わいを見せていた。
その大繁盛の一翼を、看板娘であるテミスとアリーシャが担っている事を、本人たちは知る由も無いのだが。
「いらっしゃいませ! 申し訳ありません! 只今お席が満席でして……」
「ごめんねぇ~……座れる所、無くってさ……どうしてもって事なら、待っててもらう事になっちゃうんだけど……」
そんな宿屋の食堂では、固くも誠実さが垣間見える口調のテミスと、持ち前の愛嬌と明るさで接客をするアリーシャが、大賑わいのホールを右へ左へと忙しく飛び回っていた。
「あいよっ!! ロックベアのステーキあがったよ! オオ菜のスープもッ!!」
「は、はーいッ!! ごめんテミスッ! お客さんたちへのお詫びと誘導、お願いっ!!」
「あ……あぁ……」
キッチンから響くマーサの声に、アリーシャはピクリとその肩を跳ねさせると、素早い動きで配膳に回る。その素早さはまるで、言葉だけを残して立ち去ったと思えるほどに早く、テミスが返事を返す頃には、アリーシャは既に料理を手に配膳を開始していた。
「それでよぉ……待つって言ったって、どんくらいかかるんだ?」
「あっ……と。そうですね、お先に待たれている方もいらっしゃいますので……かなりお時間を頂く事になるかと思います」
「っか~……参ったな。こんな事なら、もっと早く食いに来るんだったぜ……」
「申し訳ありません」
テミスは自らが受け持っていた客に加えて、アリーシャから引き継いだ客へも頭を下げると、眉根を寄せて苦笑いを浮かべた。
まさか、こんな事になるとは完全に予想外だった。
講和が成立した事が世に知れ渡ってからというもの、ファントの町に滞在する人間の数が激増したのだ。その結果として多くの店には人が押し寄せ、史上まれに見る大繁盛しているものの、その代償として軽いパニックのような状態に陥っていた。
「まぁ、こればっかりは仕方ねぇわな。何せ今やこの町は――」
「――配膳!! ボサっとしてんじゃないよッ!!」
「っ……とと……。まるで戦場だ……。俺達の無駄話に付き合わせちゃ悪いな。また女将さんに怒られないうちに行きな。また来るよ」
「……ありがとうございます。是非、またのお越しをお待ちしています」
テミスへ笑みを向けながらお客が軽い調子で口を開きかけたが、同時に店の奥から響いたマーサの怒声に驚いたように目を見開くと、その笑みを苦笑いへと変えて踵を返していく。
そんな客の背に一言、テミスはお辞儀と共に既に決まり文句になりつつある挨拶を返してから、その身を鋭く翻してアリーシャの仕事に加勢する。
「フッ……」
そんな、目まぐるしい仕事場を駆け回りながら、テミスは僅かに笑みを漏らした。
先程の冒険者風の男は、この忙しさを戦場のようだと喩えていたが、この場の忙しさは戦場とは比べ物にならないだろう。
「テミスッ!! 今、待ってくれてるお客さんはどれくらいだい?」
「えっ……? は、はいッ!! えーと……六組、十三名です!」
「わかった。なら今日はその待ってくれているお客さんで看板だ!」
「っ……! わかりましたッ!!」
厨房から顔をのぞかせたマーサが手早く判断を下すと、それを聞いたテミスは返事を返しながら秘かに臍を噛んだ。
恐らく、食材や仕込みの関係なのだろう。壁にかけられた時計に視線を走らせるが、その針が指し示す時刻はいつもの閉店時間より遥かに早い。
「さて……やるか……」
マーサの指示を受けたテミスは、一人ホールを飛び回るアリーシャに背を向けると、怪し気に蠢かせた手をパキリと鳴らして店の戸を潜る。
「おっ……!! きたきた……あの子だぜ」
「そろそろだと思ったんだよな。さてさて……」
その先……店の前では、好機に目を輝かせた者たちがその足を止め、遠巻きにその視線をテミスへと向けていた。
だがテミスは、自らに注がれる視線をものともせず、まるで案内人の如く扉の脇に佇むと、己の役目を果たすべく待機する。
そこへ、店の席が空くのを待っている列から、一人の男が抜け出して朗らかに声をかけた。
「ハハッ……すっかり定位置だな? 出入口」
「えぇ、まぁ……。適材適所というヤツですよ」
「あ~……そいつは何とも答え辛い返しだなぁ……」
「フフッ……バニサスさんこそ、いつもありがとうございます。毎日来ていただけるだけでなく、順番まで」
「いいって事よ。お陰で俺達も良い思いをしてる訳だしな」
テミスは町娘としての表情で柔らかに微笑むと、悪戯っぽく笑うバニサスと言葉を交わす。
これは多忙になってからの恒例なのだが、バニサス達のような以前からの常連客は、客足が途絶える最後まで待ってもらうかわりに、店を閉めた後にいつも通りののんびりとした場を提供していた。
そこに、仕事を終えたテミスやアリーシャが混ざる事が、バニサス達の密やかな楽しみであったりもするのだ。
「あ~……バニサスさん。すみません。仕事のようです」
「ほいほいっと。邪魔しちゃ悪いね……」
しかし、他愛のない雑談に花を咲かせる間も無く、油断なく周囲に走らされていたテミスの目が、店へと近付く者たちを捉えて笑顔を崩さぬままに一歩進み出る。
すると、その動きに合わせて道を譲るように、バニサスは苦笑いを浮かべて店の壁際まで身を寄せたのだった。




