641話 平穏の裏側
「っ……!! わかったわよ……」
テミスの飾らぬ言葉に、フリーディアは一瞬だけ言葉に詰まった後、湯だったように赤らめた顔を背けてぶっきらぼうに口を開くと、沈んだ声で語り始める。
「私がロンヴァルディアに戻ったのは、実はファントとの関係を良好にするためだけでは無かったの」
「……何か、考えがあったと?」
「えぇ。それはほんの僅かな可能性だったけど、この戦の世を終わらせる起死回生の手だったわ」
「戦の世を終わらせる……? まさかそれは、魔王軍との人間……いや、ロンヴァルディアの戦争の事を言っているのかい?」
フリーディアはルギウスの問いかけに無言で頷くと、テミスから受け取ったジョッキを傾けて唇を湿らせ言葉を続ける。
「終わるわ。それも確実に……ね。贅沢ばかりして働かないお父様に替わって、今回の戦いの功を以て私がロンヴァルディアを率い、テミスがギルティア……魔王との繋ぎを努める。魔王軍を離れたテミスが平和を望んでいて、魔王が暴虐を望んでいない事を知った、私にだけできる最善の一手よ」
「っ……!!」
「なっ……」
重々しい口調で明かされたフリーディアの秘策に、テミスとルギウスは呆気に取られて言葉を失う。それは同席しているサキュドとマグヌスも同じらしく、見開かれた瞳は驚きに満ち溢れていた。
こんな秘策などまさしく荒唐無稽。誰が聞いたとしても、その計画は成就しないと口をそろえて言うだろう。だがそこには確実に、針の先程の希望があったのは否定できない。
「予想できなかったのは王侯派の筆頭で、軍部の最高責任者でもあるフランコの動きよ。まさかこの状況で、白翼騎士団を手放すなんてっ……!!」
悔し気に表情を歪めながら拳を握るフリーディアを横目で眺めながら、テミスは密かに得心を得ていた。
妙に話がスラスラと進むと思ったのだ。我々の手によって大軍を失ったロンヴァルディアにとって、最強の騎士団である白翼騎士団は手放しがたい貴重な兵力の筈だ。だというのに、連中は殊勝にもフリーディア達を差し出し、和平を求めてきた。
「……なるほど。少しばかり話の分かる奴だと思ったが……その正体は狸の類だったか」
だがそこに、地位や名声を求める私利私欲や派閥争い、権利闘争があるのならば話は別だ。
フリーディアから得た確信に頷きながら、テミスは薄い笑みを浮かべてため息を吐く。
要するに、これは体の良い厄介払いだ。王女であるフリーディアを中央から隔離し、同時にファントを監視させる。浮いた駒の使い道としては最善手だし、既得権益にしがみつく連中には垂涎の上策だろう。
「だが、廃嫡された訳ではないのだろう? ならば希望がすべて潰えた訳ではないのだ。そう悲観する事はあるまい」
「……そうだね。確かに今回は千載一遇のチャンスだったのは間違いない。けれど、些か性急が過ぎたんじゃないかな?」
唇を噛み締め、悲嘆に暮れるフリーディアにテミス達は柔らかな笑みを浮かべながら、慰めの言葉を口々に告げる。
確かに、彼女は大きなチャンスを逃したのだろう。だが、その機会はあくまでも偶発的に降って湧いたものだし、上々に終わった会談の結果も加味した、結果論に過ぎない。
ともすれば、私とギルティアが袂を分かったまま、ファントと魔王軍の緊張状態が続く可能性もあったのだから。
「そうじゃないッッッ……!!!」
「……っ!」
しかし、そんな何処か楽観的な答えを返したテミス達に、フリーディアはまるで血でも吐くかのように苦しげな声でそれを否定する。
「今ッ!! 戦いを止める事ができればッ……!!! これ以上誰も傷付かなくて……誰も喪わなくて済んだのよッ!!」
「……そうだな。少なくとも今回のように、魔族と人間との間での戦いは避けられたかもしれない」
「何よ……その……言い方……。まるで、人間と魔族が融和しても……戦いが終わらないみたいじゃない……」
「…………」
その反論に静かな口調でテミスが同意すると、フリーディアは大きな瞳に涙すら溜めて声を震わせた。
恐らく、たとえ今フリーディアが王位に就き、魔族との平和を築いたとしても、戦いが終わる事は無いだろう。
今度は、新たな王となったフリーディアと、旧体制を指示する者達の間で……秘めたる悲願を果たしたギルティアと、人間との協調を厭う魔族と戦いが起きるかもしれない。
否。それはきっと、起きてしまうのだろう。
「ふざけないでッ!! そんな……そんな事がある訳ないッ!!」
「そうだと……いいな……」
「……ッ!!! どうして貴女はいつもそうやって……ッ!! そんなに私の事が嫌いなのッ!?」
「違う。そうじゃない……」
怒りを露わにして叫びをあげるフリーディアに、テミスはただ静かに、そして悲し気に言葉を紡いだ。
「長い間……魔族という共通の敵を相手にしてきたお前達には解らないだろうな……。その存在がどれだけ、人間という仲間内での諍いを抑えて来たのかを」
当たり前の話だ。
魔王に魔族。そんなわかりやすい『敵』が居れば、団結するのは難くない。
だが、ヒトの欲望というのは際限が無いモノ。文明が発達し、争う行為自体が『悪』とされたあの世界であっても、国家は仮想の敵国を定めて団結し、人々は秩序を脅かすものを『悪』だと……『敵』だと定めて結束していた。
ならば、無理をしてまで全てのものが幸せになる必要なんて無いだろう。
他者の幸せを害する者を『悪』であると……『敵』であると定め、奪われた幸せを奪い返す。それが、人の世が出した正しい世界の回しかたなのだ。
「だからな……。今回はこれで良いんだ……」
「テミス……貴女は……」
テミスは皮肉気な笑みを浮かべ、どこか達観したかのように嘯いてみせる。
そんな似合わぬ雰囲気を纏うテミスに対し、フリーディアは息を呑んで目を見開くと、ただ呟きを漏らす事しかできなかったのだった。




