622話 背負った温もり
いつかは、こんな日が来る気がしていた。
テミスとアリーシャの決闘を見つめながら、ルギウスは胸の中でひとりごちった。
『町娘』と『守護者』。この二つの立場はいわば平穏と動乱……相反する世界に生きる存在だ。たった一つの身体しか持たない彼女が、その役を十全にこなせるかといえばそれは否になる。
「だが……」
頭ではそう理解していても、ルギウスの胸の中には拭いきれぬ不安があった。
時折、テミスが見せる異様なまでの狂気。サキュド曰く、先の戦いでもそれは顔を出し、無謀にもタラウードに辛勝した直後の満身創痍を極めた身体で、アンドレアル軍団長に牙を剥いたという。
しかし、日常を過ごすテミスを見ていてもそんな素振りは無く、それこそあの宿屋で給仕をしている時なんかは、どこから見てもただの町娘にしか見えないのだ。
そこからルギウスは、今のテミスという不安定な少女は、町娘と狂気という両極を内包するが故に形作られているのではないか……と考えていた。
「っ……!! 君に……懸かっているッ……」
固く食いしばった唇の奥で、ルギウスは声にならない声で、祈るようにアリーシャへ声援を送った。
自らが立てたテミスへの仮説。それが正しかったのだと、ルギウスは今朝になってようやく確信した。
平時だというのに、まるで死人でも歩いているかのような生気の無さ。その身に纏うただひたすらに冷酷なだけの雰囲気は、最早ヒトが纏うものでは無かった。
故にルギウスは、『町娘』としてのテミスの存在が、彼女を心優しく勇敢で、正義と情に厚い少女として繋ぎ止めているのだと思い知ったのだ。
そして、彼女をヒトたらしめていたその箍は今、外れようとしている。
「っ……!!!」
それを知ってか知らずか、疲労困憊ながらも剣を振るうアリーシャを見つめて、ルギウスは固く固く拳を握り締めた。
同じ血濡れた戦士である僕達の言葉では、彼女には届かない。
戦友でも同胞でもない……『姉』である君の言葉だけが、唯一テミスを留めておく事ができる希望なんだッ!!
「ねぇ……テミス。あなたはなんで……そんなに怯えているの?」
「……怯えている? 私が?」
剣を交えながら問いかけたアリーシャの言葉を、テミスは鼻で笑ってニヤリと唇を歪める。
怯える事など何もない。この胸を突く痛みでさえも、ただ前に進むために必要なものなのだから。
「ならなんで、私を斬らないの?」
「なっ……!!!」
ざわり。と。
言葉と共に地面に大剣を突き立てたアリーシャに、傍らで見ていたルギウスが息を漏らした。
否。彼だけではない。周囲でこの決闘の行く末を見守っていた誰もが、一斉に息を呑んで静まり返る。
「私は絶対にテミスを諦めない。あなたが間違った道を行こうというのなら、こうして何度だってテミスの前に立ちはだかるわ」
「間違い……だと?」
続けて紡がれた言葉に、テミスはピクリと眉を動かして静かな声で応じた。
たとえ何があっても、間違いなどと誹りを受ける謂れは無い。この町を蹂躙せんとする魔手を退けたのが間違いであったというのならば、この世に正義など……。
「っ……!!!」
テミスの考えがそこへ至った瞬間だった。
アリーシャを見据える双眸の奥がズグンと痛み、心の奥底からどろりとした何かが這い出て来る。
「ぁ……あ……」
大剣を握る手が震え、テミスの足が無意識のうちに一歩後ずさった。
そうだ。
私はこの感覚を知っている。
命を賭して、必死で守ったその世界に裏切られるこの感覚を。
――お前もなのか? アリーシャ……。
心が抉り取られるかのような感覚と共に、テミスの視界がぐにゃりと歪む。
私は、何を期待していたのだろう。結局、馬鹿は死んだ程度では治らないらしい。
あの時心の底から思い知ったはずなのに。
だからこそ、守るのではなく……ただ悪を滅ぼすだけの存在でいようと。そう誓ったはずなのに。
「大丈夫。怖くないよ」
一歩。
アリーシャは柔らかに微笑みを浮かべると、目を見開いて震えるテミスへと歩み寄る。
「っ……!!!」
刹那。
まるで弾かれたようにテミスの手が閃き、その手に握られた大剣が振り上げられる。
しかし、アリーシャがその足を止める事は無く、その場の誰もが直後に起こるであろう惨劇を予感した。
「駄目だッッ!! 逃げ――」
「――大丈夫」
振り下ろされるであろうテミスの刃を防ぐべく、ルギウスが制止の叫びと共に腰の剣に手をかける。しかし、短く紡がれたアリーシャの力強い言葉によって、その場に押し留められた。
その間もアリーシャは歩みを続け、遂にはテミスの間近へと足を踏み入れる。
「間違えないで? テミス。私も皆も、この町の事が大好きだわ? でもね……それよりもずっと、あなたの方が大切なのよ?」
しかし振り上げられた剣が振り下ろされる事は無く、アリーシャは柔らかな微笑みを浮かべたまま、テミスの頬へ優しく触れると言葉を紡いだのだった。




