607話 静寂の終焉
――不思議な気分だった。
あれだけ怒りと憎しみで煮えくり返っていた心は、波風一つ立たない湖畔の水面のように静まり返っている。
決して怒りが、憎しみが消え去った訳でも、タラウードを許した訳でもない。
確かにこの胸の内に、未だ憤怒と憎悪は宿っている。
しかしそれでいて尚、その身を焦がすような激情を、テミスが抱く事は無かった。
「グ……クグゥッ……!!! 貴様が……貴様が全ての元凶ッ!! よも……よもやギルティア様の御心に、それほどまで深き根を張っていたとはッ!!!」
「…………」
「許さんッッ!! 許さんぞォッ!!! 貴様を殺し、その首を捧げれば、必ずやギルティア様もお気づきになるはずだァッ!」
「……そうか」
タラウードが戦斧を振り上げて猛り狂うが、テミスは剣を構えたまま、事も無げにただ一言、言葉を返しただけだった。
その理由を、自らすら驚く程に冷静な頭でテミスは思考していた。
最早何を喚こうとも、その言葉が私の心を振るわせることは無いだろう。
この哀れな男には、怒りを抱くだけ無駄で、憎む事さえ厭わしい。そんな男と交わす言葉を私は持ち合わせておらず、故にこれも決して戦いなどでは無く、ただ剣を振るうだけの作業に他ならない。
「っ……!! なんだその目はッ!! なんだその顔はッ!! 儂は……儂は魔王軍第九軍団長にして南方戦線総司令官ッ!! タラウード・ヒュブリディスだぞォッッッ!!」
「……。だから……何だ……?」
「――っ!!?」
「……来ないのか? ならば、私から行くぞ」
蒼白だった顔面に血を登らせ、口角を飛ばして叫びをあげるタラウードに、テミスは短く、そして冷たい声で言葉を返す。
同時に、地面を水平に構えた大剣を携えたまま、その姿がタラウードの前から掻き消えた。
「ムゥッ……!? 何処へ……? グハハッ!! あれだけの大口を叩いておいて逃げよったかッ!」
テミスが姿を消した瞬間に、タラウードはビクリと身構えて戦斧を構えるも、一向に加えられる事の無い攻撃に、構えを解いて高らかな笑い声をあげる。
しかし。
「……後ろだよ」
「なっ……にィッ……!?」
背後から冷たく響いたテミスの声に、タラウードは驚愕に目を見開いてその身を翻す。
だが、身を翻したタラウードを迎えるように、深々と切り込まれたテミスの大剣が、袈裟懸けにその身を切り裂いた。
「グッアアアァァァ……!? ば……馬鹿なッ!! 気配など……殺気すら一切感じなかったぞッ!?」
「フゥ……」
「――ッ!! 答えよッ!! お前が儂へ抱いていたあの憎しみは……同胞を傷付けんとした儂に怒った激情は何処へ消えたッ!?」
「……。そんなもの……」
テミスから一太刀を受けながらも、タラウードはよろめくように一歩退くだけで踏み止まり、叫びをあげながら反撃を加えるべく高々と斧を振りかぶる。
けれど、その姿に先程までの尊大で傲慢な色は無く、繰り出される攻撃もただ攻撃されたから反撃を繰り出しているだけのものだった。
その大振りに繰り出された反撃を契機に、タラウードは叫ぶように言葉を紡ぎながら、テミスへ向けて連撃を繰り出す。
「理解したんだよ。お前には、そんな感情を抱くだけ無駄だと」
「ほざけェッ!! 一度抱いた憎しみをッ!! 一度燃やした怒りをッ!! そう簡単に捨てられるものかァッ!!」
「…………」
「儂と貴様はッ!! 互いに反目しッ!! 疎み合いッ!! 鎬を削る立場の筈だッ!!」
「っ……」
「違うかッ!? 儂は人間への消えない怒りを抱えた魔族たちの代弁者としてッ! 貴様は、不心得にも人間と魔族の調和を目指す者としてッ!! 貴様のその傲慢な野望を打ち砕いてこそ……呑み込んでこそッ!! 儂は同胞を憂う真なる魔族として、道を誤った魔王を正した名君としてこの名を轟かせるのだッ!!」
「……下らん」
バキィンッ!! と。
テミスがぼそりとその唇を動かした刹那。
タラウードの戦斧と、テミスの大剣がひと際強く打ち合わされ、大きな音を戦場へと響かせる。
その音はまさしく終わりを告げる音であると同時に、テミスが鋭く振るった漆黒の大剣が、力任せに振り下ろされたタラウードの戦斧を粉々に砕いた音でもあった。
「なっ……あっ……?」
「哀れな奴め。酔いしれた夢からは醒めたか? 未来永劫……お前の野望が成し遂げられる事は無い」
「ッ……!! フッ……グッフッフ……。戯れ言を。お前は人間の浅ましさを知らない……。いつの日か必ず、この瞬間を後悔することになる……」
自らの武器を粉々に砕かれたタラウードは、尻もちをつくようにドサリと地面に崩れ落ちると、氷のように冷たい目で自らを見下ろすテミスへ不敵に笑いかけながら言葉を続ける。
「儂の怒りが……魔族の憎しみが幸福であったと思えるほどの地獄が、お前を待ち受ける事だろう。それを背負う覚悟が――」
「――囀るな。私が後悔する事など……ましてや、お前の妄想を背負う事などあり得ない。この先、その名を記憶に留める事も無いだろう」
しかし、その言葉を遮って、テミスは淡々と言葉を紡ぎながら、漆黒の大剣を高々と振り上げた。
そして溶けた蝋燭のような邪悪な笑みを浮かべながら、歌うような口調で口上を紡ぎあげる。
「さようなら。哀れな魔族よ。せめてその死出の旅路が、安らかなものであらん事を」
「ま、待てッ……!! テミ――」
直後。
ドシュウッ……!! と。
制止の声をあげかけたタラウードを無視して、無慈悲に振り下ろされたテミスの大剣が、その首を一息で撥ね飛ばしたのだった。




