606話 魔女の報せ
「っ――!! お前……はっ……!!」
空から響いた声に顔をあげたテミスの目に映ったのは、紛れも無い絶望だった。
まるで、重力の頸木から解き放たれているかのように、その女はふよふよと所在無さげに宙を漂っている。
忘れもしない。その女は。
「第二軍団長……ドロシーッ!!」
「ふん……ボロボロじゃない。いい気味ね」
「クッ……」
「フフフッ……フハハハハハハハッ!! よくぞはせ参じたドロシーッ!! 元より、万に一つの勝ち目も無かったお前だが……絶望の上塗りだなァ……?」
驚愕に目を見開き、歯を食いしばるテミスをよそに、タラウードは高笑いを上げてドロシーにそう告げた後、ニンマリとその顔面を嘲笑へと変えて、テミスへと語りかける。
「さて、お前の罪はどう罰するべきか? 手始めに、あの町の住人を全て捕らえた後、お前と連中の目の前で残った家屋焼き尽くしてやろうか?」
「下種めッ……!!」
「…………」
狂喜を湛えた嗜虐の笑みを浮かべるタラウードに、テミスは胸の内に沸いた嫌悪感を込めて吐き捨てた。
何故、あのギルティアがこのような男を擁しているのかは知らんが、こんな結末を迎えるくらいならばいっそ、南方で始末しておくべきだった。
テミスは上空のドロシーと、眼前で高笑いするタラウードを交互に睨み付けながら、剣を固く握り締めて歯噛みをする。
「フゥゥゥゥッ……」
「…………」
こうなったのならばせめて、タラウードだけでも殺しておくべきだろう。
そう覚悟を決めて、テミスは眼前のタラウードに鋭い目を向け、満身創痍の肉体に鞭を打つ。
ドロシーとて褒められた人格をしている訳では無いが、その魔術への探求心だけは見上げたものがある。
ならば、何一つ褒めるべき所の見当たらないこの愚物よりも、多少は被害が軽微で済むはずだ。
「……相変わらず、気に入らない女ね」
「全くだ。人間の分際で――」
「――黙りなさい。タラウード。それでも、アンタよりはマシよ。この魔王軍の恥晒しめ」
「なっ……!!?」
タラウードは、憮然と漏らされたドロシーの言葉に嬉々として同意する。しかし、直後に放たれたドロシーの氷のように冷たい台詞に、言葉を失ってパクパクと口を開閉させた。
「魔王様……ギルティア様からの言伝よ。お前とテミスがいくら揉めようが好きにすればいい。テミスに自由を与えた以上、その責を負うは奴の定めだ。だが……」
「っ……!!」
『罪無き民たちに……護るべき者達に害をなす事を、俺が赦すと思ったか?』
ドロシーの口から放たれた言葉は、まるでギルティア自身がこの場で言葉を発しているかの如く、傍で聞いているテミスの背筋をも粟立たせるほどの迫力を持っていた。
そして、それが錯覚でない事を証明するかのように、眼前のタラウードはその顔面から血の気が引いている。
「ぁ……ぅ……こ、これは違――」
「――私に何を言われても知らないわよ。私はただ、ギルティア様に下された命令をこなすだけ……そう云う訳だから。苦痛緩和」
「っ……!?」
狼狽するタラウードを半眼で睨み付けながら、ゆったりと地上に舞い降りたドロシーは、その掌を唐突にテミスへと向けて呪文を唱えた。
その素早さは、疲弊したテミスが反応できるものでは無く、薄緑色の淡い光がテミスを包み込む。
「これ……は……!?」
しかし、全身に力を込めたテミスの予測したような苦痛が襲い来ることは無く、むしろ逆に、全身を蝕んでいた疲労と痛みが和らぎはじめる。
「回復した訳じゃないわ。ただ、苦痛を少し感じなくしただけ。別に……お前の為にした訳じゃないから。勘違いしないでよね。勝ち逃げされるのは嫌いなの。それに……」
テミスの向ける驚きの視線をから逃れるように、僅かに頬を赤らめたドロシーはそっぽを向いたままそうテミスへ告げると言葉を切る。そして、大きく息を吸い込んでテミスへ向き直り、その目を見据えと言葉を続けた。
「私に勝ったあんたが、こんな偉ぶってるだけの下種ダルマに負けるなんて許さないわ」
「フッ……」
紡がれたドロシーの言葉に、テミスは皮肉気に唇を吊り上げると、その傍らを通り過ぎてタラウードと向かい合う。
そして、背を向けたドロシーに向けて、皮肉気な口調でただ一言だけ言葉を返した。
「……ならば、借りておいてやろう」
「フンッ……! わざと私を生かした癖して……嫌味な奴。町へ向かった連中は私に任せなさい。ギルティア様の勅命だもの……軍団長の役目、十全に果たして見せるわ」
「クク……ならばせいぜい、誤射されぬように気を付けるのだな」
「……? 何それ。まぁ、それだけ軽口が叩ければ十分ね。せいぜい、相打ちになる事を願ってるわ」
「言葉のままさ。行けばわかる」
まるで反目しあうかの如く、ドロシーはテミスと互いに背を向けたまま言葉を交わすと、再びふわりと空中へ飛び立って行く。
そして、怒りの表情のまま顔面を蒼白にして全身を振るわせるタラウードと、冷酷な表情で剣を構えたテミスだけが戦場に残された。
「――そう云う訳だ。決着を付けようか……タラウード」
そう冷たく紡がれたテミスの言葉が、空虚な戦場に響き渡ったのだった。




