598話 不壊の槍
恐怖で腰が抜けたのだと理解したのは、シモンズに間近まで近寄られてからの事だった。
ガクガクと情けなく震える足は既に役目を果たしておらず、噛み締めていた筈の奥歯がカチカチと打ち合う音が、サキュドの脳裏に響いている。
ここまでか……。
真っ暗な絶望に染まった胸の中で、サキュドはボソリと言葉を零した。
私はただ、テミス様の背を追っていただけだ。
底抜けにお優しいテミス様は、決して私達を死地へと送り出す事は無かった。そのくせ、自分は平気な顔をして自殺のような無謀をやってのける。
……もう、無茶をしちゃ駄目ですよ? テミス様。止める人、居なくなっちゃうんですから。
そんな事は不可能だと知りながら、サキュドは胸の内に思い浮かべたテミスへ、届かぬ遺言を紡ぎ続ける。
今回だってそう。
ロンヴァルディアとの戦いで、一番消耗しているのは他でもないテミス様だ。
誰よりも前線で戦い続け、誰よりも多くの敵を屠っていた。いくらテミス様であても、疲労が溜まらないはずが無い。
だというのに、今度はたったお一人で魔王軍を相手にするなんて言い出した。
……知っているんですから。貴女がどれ程の無茶を重ねているのか。
ファントの町で留まるテミスは、サキュドであっても見ているこちらまでも眠たくなってくる程によく眠る。恐らくはそれが、テミスの普通なのだろう。
だというのに、町から一歩でも外に出ればその眠りは浅く、あのヤマトとかいう町で部屋を共にした時には、本当に休んでいるのかと疑ったものだ。
……悔しいな。
凪いだ湖畔のように静かなサキュドの心に、何処からともなく漏れた小さな声が響き渡る。
それは紛れもなくサキュドの声で、一度溢れてしまった感情は、雨のように次々と心をかき乱していく。
――いったい、いつから自分が強くなったと錯覚していた?
テミス様に守られていただけの私が。
いつの間にか目標となっていたその背に、付いて回っていただけの私が。
結局私は、最期まであの方に並ぶことはできなかった。
その気高く伸びた小さな背中に。
その双肩にかかる比類なき重荷を、自分も背負うのだと誓いながら、私自身がその重荷になっていた。
結局、ただの一度すらも。テミス様のようにふるまう事は出来ないのだ。
漆黒に塗り固められた心の中で、サキュドは倒れ伏して悔し涙を流す。
どんなに焦がれても届かない。けれどいつの日か。歩み続けていれば夢は叶うと信じていた。
テミス様ならきっと……。
っ……!!! テミス……様なら?
ぴくり。と。
心の闇の中で、壊れた人形のように横たわるサキュドの瞼が蠢く。
テミス様はいつも困難に……絶望に立ち向かっていた。
その身体が切り裂かれようとも、いつだってボロボロになりながら、諦める事無く勝利を掴み取ってきた。
それに比べれば……これくらい……ッ!!!
サキュドの声なき叫びが響き渡ると同時に、真っ暗に染まった心の中に、一筋の小さな炎がゆらりと揺らめいた。
そうだ……私は、テミス様の副官なんだ。
同時に、萎えかけていた手足に力が漲り、闇の中で横たわっていたサキュドは歯を食いしばってその身を起こす。
たとえ、テミス様のような比類なき強さは無くても。
たとえ、テミス様のように強靭な誇りを持てなくても。
たとえ、テミス様のように大きな器が無くても。
――決して諦める事の無い不屈の心だけは真似をする事ができるッ!!!
心の中でそう叫びをあげた瞬間。闇に染まっていたサキュドの視界がまるで砕け散るように色を取り戻した。
目の前では呆然自失としていたらしい自分に、憐れみすら感じさせる笑みを浮かべて手を差し伸べるシモンズが居る。
まだ……生きてる。
まだ、手も足も動くッ!!
シモンズの奴が本当に深淵に至りし魔術師ならば、力の差は歴然だ。
正直、勝ち目なんて一片たりとも見当たらない。
「…………」
ゆっくりと。
サキュドはまるでシモンズに差し出された手に導かれるように、力の戻った右手を持ち上げる。
絶望に押し潰されたかのように俯いた頭で、再びギラギラと輝きだした紅の双眸を隠しながら。
「来なさい。不壊の短槍ッッッ!!!」
「ムォッ……!?」
持ち上げられた腕がシモンズの胸へと向いた刹那。
サキュドは掌に力を籠めると、シモンズの胸へ突き立てるように、一本の槍を喚び出したのだった。




