597話 差し出される魔手
紫電が迸り、周囲を揺るがす轟音が鳴り響いた。
サキュドの放った神穿つ紅の槍の威力は凄まじく、数瞬遅れて切り裂かれた大気が吹き荒れ、塵と化した粉塵が舞い上がる。
「くふっ……勝ったわ」
ニヤリ。と。
サキュドは胸の奥からせり上がってくる血を、唇の端からボタボタと垂れ流しながら頬を吊り上げた。
ブラッディー・メイルシュトロームに神穿つ紅の槍。躱す事は叶わず、かといってあのヒヒジジイに神穿つ紅の槍を防ぐ事は不可能だ。
「っ…………」
役目を果たす事ができた。
軍団長に勝利したという事実よりも先に、サキュドが感じたのは胸を満たす達成感だった。
テミス様は褒めてくれるだろうか?
そんな期待に浮かれて緩みそうになる頬を引き締めると、サキュドは大きく頭を振ってヨロリと足を踏み出した。
「まだ……。戦いは終わっていない……ッ!!」
戦い続けた体は既に満身創痍で、魔力もほとんど残っていない。
けれど、シモンズを倒したとはいえ、まだ旗下の雑兵は残っているし、マグヌスはもう一人の軍団長、アンドレアルと戦っている筈だ。
こんな所で休んでいる暇は無い。
サキュドが次の戦いに向かうべく、休息を求めて悲鳴をあげる身体を引き摺るようにして数歩歩いた時だった。
「見事……と、言わざるを得んな」
「――ッ!!!?」
サキュドの背後から、シモンズの声が静かに響き渡る。
その声は、ビクリと肩を震わせて凍り付いたサキュドの事など構わず、一定の調子でつらつらと続けられた。
「よもや、お主のような小物に切り札を使わさせられるとは……。誇ってよいぞ、小娘」
「なん……で……」
「根魔絶衝隔絶結界。膨大な量の全ての属性の魔力を練り合わせて宝玉に溜め込み、術者を一時的に世界から隔絶する術式じゃ。早い話、これを使えばワシは、あらゆる攻撃を無力化できるのじゃ」
「っ……くっ……」
朗らかに語るシモンズを前に、サキュドの喉は砂漠のように干上がっていた。
先程まで胸を満たしていた満足感は霞と消え、替わりに今にも圧し潰されてしまいそうな絶望感が押し寄せてくる。
「そしてお主の誤解。先程ワシが放ったのは陽炎爆裂魔法ではない」
「っ……!! ハッ……ハッ……」
これ以上、コイツの言葉を聞いてはいけない。
頭ではそう理解している筈なのに、サキュドの身体は、ただただ目を見開き、浅い呼吸を繰り返すばかりで凍り付いたように動かなかった。
たった一発。神穿つ紅の槍が防がれただけだ。防がれたのなら、貫くまで打ち込んでやればいい。
テミス様の臣下として、居場所を守護する一人の衛士として。
だが、忠誠心を奮い立たせても、果たすべき役目を思い浮かべようとも、サキュドの身体は硬直したまま動く事はなかった。
「――ありゃ、ただの火の魔法じゃ。術式を示す名すら持たず、戦闘用に研ぎ澄まされた訳でもない。魔族ならば誰にでも扱えるただの生活魔法じゃ。込めた魔力の濃さと量は桁違いじゃがの」
「嘘ね。虚勢を張るにしても、子供でももう少しマシな言い訳を考えるわ?」
「ホホホホホッ!! 虚勢を張らんで良いのはお主の方じゃろうて。もう……理解しておるのじゃろう?」
「っ…………」
震える声で辛うじて言葉を返したサキュドに、シモンズはカラカラと朗らかな笑い声をあげて身を捩った。
「ッ……ぅっ……!!」
その憎たらしい顔面に、この手の槍を今すぐに突き立ててやる。
それとも、枯れ木のように萎びた四肢を切り落とし、身体を真っ二つに両断してやろうか。
サキュドは身を焦がす屈辱と怒りで心を燃やしたが、情けないこの身体はただひたすらにガタガタと震えるだけで動かない。
「もう良かろうて。天晴れじゃ。お主は十二分に戦った。副官の身でありながらワシに本気を出させたのじゃ……。満足して……諦めよ」
「ぁ……ぅ……っ……」
言葉と共に、シモンズがゆっくりとサキュドへ向けて足を踏み出した。
それに反応して、サキュドの身体は反射的に一歩退こうと脚を動かすが、震える足は簡単にもつれ、サキュドはドサリという軽い音と共に尻もちをついた。
――絶対に勝てない。
心で幾ら否定しようとしても、サキュドが培った経験が、理性が敗北を直感していた。
それを自覚した瞬間。サキュドの瞳から燃えるような闘志が急速に失われていく。
「敗北を認め、我が手を取るのじゃ。なに……悪いようにはせん。最後の瞬間まで、お主ら主従の仲は引き裂くまいて」
柔和な笑顔で、シモンズはまるで倒れたサキュドに手を貸してやるかのように、術式の込められた魔手を差し出した。
「諦めることを恥じる事は無い。それにまだ……魂すら残さずに消えるのは厭じゃろう?」
「っ…………」
尻もちをついたサキュドに魔手を差し伸べたまま、シモンズはゆったりと、まるで説き伏せるかのように言葉を紡ぐ。
そして、短い沈黙が流れた後。
その身を縛る呪縛から逃れたかのように、サキュドの手がゆっくりと持ち上げられたのだった。




