56話 幻の影
「くそっ……! くそくそくそッ!!」
凄まじい速さで疾駆する馬の上で、テミスは呪いの様に苛立ちを吐き出した。本人の前ではあれだけ警戒していたと言うのに、少し離れただけで奴の甘言に踊らされるとは何たる迂闊か。
「チィッ……ここからファントまでは早馬でも半日はかかるッ! 何か……何か方法は無いかっ……」
焦りが頂点に達した脳で思考するが、それこそ時空を切り裂いて移動でもしない限りは間に合わないだろう。
「まてよ……そうかッ!」
「テミス様っ!?」
驚きの声をあげるマグヌスを捨て置いて、テミスは馬を走らせたまま背中の剣を抜いた。そうだ。時空を切る技ならばいくらでもある。仮に私のこの力が正義の味方の技を模倣する力なのであれば……。
「よし! 次元刀……一閃ッ!」
目を閉じて頭の中でイメージを思い浮かべ、真一文字に剣を振り抜く。空を裂く高い音が聞こえ、ほんの一瞬だけ風切り音が止まった。
「っ……ぐっ……く……」
しかし、テミスが目を開けた先に広がっていたのは期待した光景ではなかった。斬撃はそのまま何処かへと飛び去り、跨った馬は変わらず疾走を続けていた。
「まだだ……まだ何か方法が……」
頂点に達していたはずの焦りがさらに増し、脳がマトモな思考をしなくなる。同時に、堰き止めていたはずの後悔や恐怖が入り込んできて、更にテミスの心を焦らせた。
「あのー。テミス様?」
「何だッ!?」
何やら腫れ物にでも触るような雰囲気で、真後ろを走るサキュドが声をかけてくる。正直な所、この状況を打開する策以外であれば遠慮して欲しいのだが。
「何でそんなに急ぐんです? ルギウス様も同じ魔王軍じゃない。駐留軍が抜けた穴を埋めてるだけでは?」
「違うッ!」
緊張感の無いサキュドの声を、テミスの怒鳴り声が押し流した。
「奴は私を動かした張本人だぞ? 何やらアリーシャを狙うかのような事も言っていたし……してやられたッ!」
「いやだから……」
サキュドを怒鳴りつけていたテミスが、途中からまた自責に入っている事を察すると、二人は顔を見合わせてため息を吐いた。以前から第五軍団長の人となりは知っているが、間違ってもそんな義理を欠く男ではなかったとサキュドは記憶していた。同時にマグヌスもまた、ルギウスは魔王軍の中でも人間との共存を唱える稀有な存在であったはず……。と首をかしげていた。
「やれやれ……」
結果として、焦燥にまみれた顔で馬を駆るテミスと、その後ろを不思議そうに首をかしげながら副官が付き従っているという、不思議な光景が誕生したのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
結局。テミス達がルギウスの到着を阻む事は出来なかった。テミスの思い付く策は全て空振りに終わり、一行がファントへとたどり着いたのは既に日が暮れかかっている頃だった。
「くっ……頼むッ……」
絶望に表情を歪めながら、テミスは祈るように呟くとそのままの速度でファントの門を駆け抜ける。まずはアリーシャの安全確認と、ルギウスの出方を見る事だ。既にアリーシャがルギウスの手に落ちているのならば、また何かしらの策を練る必要がある。
「マーサさん! アリーシャは!?」
宿屋の前で横滑りしながら馬から飛び降り、持ち前の膂力で無理矢理勢いを制御して宿屋へと飛び込む。見慣れぬ客でにぎわう店内の視線が、一斉にテミスへと集まった。
「なんだいそんなに慌てて。アリーシャなら出前だよ。何やらお偉いさんが届けて欲し――」
「クッ!!」
「――ちょっと!? ……ったく、どうしたってんだい」
マーサの言葉を聞き終わる前に、テミスは踵を返して馬に飛び乗る。マーサの呼び止める声が背中に投げかけられるが、今はそんな事を気にしている場合ではない。
「詰め所に行ったなら……まだ間に合う!」
血を吐くように呟くと、テミスは再び馬を駆けさせた。その後を、ちょうど追い付いてきたサキュドとマグヌスが、砂埃をたてぬように速度を落として追いかける。
「アリーッ!! ……シャ?」
早馬を入り口で放置して、執務室へと飛び込んだテミスの声が、か細くなって消えていく。そこにあったのは、山のように積み上がった書類と格闘するルギウスと、その傍らで困惑した表情を浮かべるハルリトの姿だった。
「やあ。お早いおかえりだね……って、どうしたんだい? そんなに息を切らせて」
「ルギウス。アリーシャは何処だ?」
「……へっ? 何がだい?」
驚いた表情を浮かべるルギウスに、テミスが鬼気迫る顔で詰め寄って問い詰める。机の隅には、マーサさん特製のサンドイッチが置いてあるし、その手元に宿屋で使っているグラスに入った、透明な液体も見受けられた。つまり、アリーシャは既にここに来てしまっていて、どこかに捕らえられているという事になる。
「宿屋の子かい……? それならさっきこれを届けてくれた後帰ったけれど……」
「嘘を吐くなッ!」
「ちょっ……テミス様ッ!?」
気炎を上げてルギウスにつかみかかろうとするテミスを、横に居たハルリトが慌てて止めに入る。
「邪魔をするな! ハルリト!」
「しかしっ!」
「ふむ……」
部下を一喝するテミスを眺めながら、執務机に座ったルギウスが息を漏らした。
「何やら、誤解を招いているようだね……ひとまず、これでいいかい?」
「っ!?」
そう言うと、ルギウスは自らの腰に提げた細身の剣を、鞘ごと抜き取ってテミスの後ろへと放り投げた。
「……話を、聞いてもらえるかな?」
「っ…………ああ」
ハルリトに組みつかれたまま、目を丸くしたテミスが頷くとルギウスは満足そうに目を細めて口を開いた。
「まずは謝罪しよう。まさか君が軍団を動かすとは思わず、安易に施設の事を知らせた事をね」
「……何を言っている?」
テミスはひとまず、力の弱まったハルリトの拘束から抜け出すと首をかしげた。この男は本当に何を言っているのだ? そもそもあの話は、私をファントから誘い出すための餌ではないのか?
「君はこの町の事をとても大切に思っているようだからね……何かあれば僕は君に顔向けができない。だからこそ、急いで駆け付けた訳なんだけど……必要なかったかな?」
「いや待て待て……お前は私が気に食わないのではないのか? その為にこの町を……アリーシャを手にかけに来たのではないのか?」
「えっ……? なんで?」
混乱しきったテミスが、首を捻りながらルギウスを指差して問いかける。その問いに対して、驚きと疑問に満たされたルギウスの答えが、静まり返った執務室に木霊するのだった。
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