491話 無慈悲なる蹂躙
この獄吏に戦う力は無い。
そう確信したテミスは、即座にその心を折り砕く方向へ行動方針を変えた。
先程の一撃。
わざと投擲を遅らせたのならば、あのナイフは私が回避を行った先へと飛んできたはずだ。
逆に、一投目を私に躱させたのならば、仕留める為の二撃目が来ないのはおかしな話だろう。
もう一つ可能性があるとするならば、この一連の攻撃すら、私に隙を生み出す為の虚構だというセンもあるが、私を見て零したアーサーの笑いでそれも消えた。
ならばあとは、この蒙昧な獄吏が理解できるように実力差を見せつけ、絶望に突き落とした後で報いを受けさせるだけだ。
「なぁ? どうした? 当たっていないぞ《・・・・》?」
皮肉気に唇を歪めながら、テミスは一歩、また一歩と獄吏へ向かって無防備に歩を進める。
それはある意味で、異様な光景だった。
怒り狂う武装した大男を相手に、肌着一枚のみを身に着けた少女が歩み寄る。
通常であれば、誰もが少女の身を危惧し、これから起こるであろう惨劇を憐れむだろう。
しかし、この場に限っては。少女の身を案ずるものは一人も居なかった。
「ホラ。もう間合いだ。一歩踏み出せばその包丁も届くぞ? それとも……怖いか?」
「ムッ……グッ……ムォオオオオオアアアアアッッ!!!」
せせら笑うテミスの挑発に、獄吏は怒りの咆哮を上げると、再び小ぶりなナイフを抜いてその顔面をめがけて力任せに投げ付ける。
だが、今度は二本。
制御を放棄したその力技を持って放たれた刃は、幸運にも獄吏の狙い通りに薄い笑みを浮かべるテミスの顔面へめがけて疾駆する。
「ブフゥゥゥゥ……グフゥゥゥゥゥ……」
ニマァ……。と。
まるで、テミスの顔面に己が投げた刃が突き立った光景でも見えたかのように、荒い息を吐きながら、獄吏は己が勝利を確信して醜悪な笑みを漏らす。
しかし……。
「ククッ……悦んで貰えて何よりだ。まさかお前に被虐の趣味があるとは知らなかった」
「ぶぎっ……!?!?」
突き立ったはずのナイフは瞬く間に獄吏の視界から消え、いつの間にか二本とも己が肉体に突き立っていた。
「アハッ……ハハハハハハハッッ!! さてさて。次はどうする? あと二歩だ」
「ぶふぅぅぅぅぅぅ……ふぅぅぅぅぅぅっっ……!!」
軽快な笑いと共に、テミスはひらりと椅子の背に飛び乗ると、その身を屈めて獄吏を挑発する。
しかし獄吏は、怒りに血走った眼でテミスを睨み付け、右手に固く握った肉切り包丁を振りかぶった。
「……止めないのですか?」
「問題無い。管理は別の者に任せるからね」
そんな戦いを眺めながら、静かに問いかけたユウの問いに、アーサーが呟くように答える。
「っ……」
迅い。
それが、テミスの戦いを見て真っ先にユウが抱いた感想だった。
先程のナイフを投げ返した反撃も、辛うじて目が追い付いたのは、二本目を投げ終わった残心だけだ。
その前の一投はナイフを掴んだ瞬間どころか、投げる気配すら感じ取る事ができなかった。
あの天と地ほどにまで実力差のあるあの獄吏が、ナイフを投げ返されたことすら気付けないのも無理もない話だ。
「くふっ……あと一歩」
「ぶぐっ……!!! フゥゥゥゥゥゥッッッ!!!」
怪しくせせら笑うテミスの声と、遂に焦りを帯びた獄吏の息遣いが重なる。
ユウが黙したアーサーから視線を戻してみれば、そこでは力任せに振り回す獄吏の肉切り包丁を、無手のテミスがその周りを踊るように躱している光景が広がっていた。
「あっ……」
「むぎゃあああああああああああああッッッ!!」
そして遂に、テミスの狙いを一瞬だけ先読みしたユウが声をあげると同時に、獄吏の痛烈な悲鳴が吹き出る血潮と共に響き渡る。
力任せに振るわれた包丁がテミスを捕らえる事は無く、逆にその動きに翻弄されて持ち主の腹に深々と食い込んでいた。
「0歩……。おや……。随分と痛そうだな?」
「ぴぎぃぃぃぃぃぃィィィッッッ!! 痛いいだひッッ!! ひゃべろぉぉォッ!!!」
手足をばたつかせながら、大の字に倒れた獄吏の上……その荒い呼吸に併せて上下する肉切り包丁の上に、無慈悲なテミスの足が踏み込まれる。
すると、肉切り包丁がさらに食い込む痛みによって我を取り戻したのか、獄吏は半狂乱な叫び声を上げながらテミスの足を払いのける。
「おっと……」
「ぎぃぃぃやああああああああああァァァァァッッ!!」
しかしそれも、その場で軽く跳躍したテミスによってひらりと躱され、正確に包丁の上へと着地した衝撃で、その刀身が余す事無く分厚い獄吏の肉体へ吸い込まれた。
「アビャァァァァァッッ!!! あがああああああッッ!!」
バヂィッッ!!! と。
狂ったような叫び声と共に、獄吏の身体からでたらめに紫電が放たれる。
そのイタチの最後っ屁ともいえる攻撃は獄吏の身体を伝って真っ直ぐにテミスへと向かい、凶悪な電気の奔流がその身体を包み込む。
だが……。
「悪いな。こう見えて、対策は怠らない質なんだ」
白い光となって目に見えるほどに強烈な紫電の中から、涼し気なテミスの声が絶望となって獄吏へと降り注ぐ。
バチバチという激しい音を立ててスパークする電撃を受けて尚、テミスは平然と獄吏の傷を抉り続けていた。
「あ……ア……ァ……ァェ……ア゛ッ!?」
次の瞬間。
ゴキリ。という鈍い音と共に、絶望のうめき声を上げていた獄吏の意識は、闇へと突き落とされたのだった。




