45話 2つの戦場
「さて……と」
通信術式を切ったテミスは、がらんどうな部屋の真ん中で一息つくと、再び思考の海へと意識を向かわせる。
応答が無かったこととサキュドの報告から、マグヌスは相手の指揮所ないしはそれに類する敵軍の懐に潜り込んでいると推測できる。だが、術式を通した会話だけならば聞こえている筈なので、状況の把握はできているはずだ。ならばこのまま奴には獅子身中の虫になってもらうとして……。
「問題はサキュドか……」
まさか、私が保護し損ねたユーキをサキュドが守っているとは。嬉しい半面で、自分の尻拭いを部下に押し付けているようで心苦しい。ユーキの存在があるために、サキュドの行動が制限されているのだからなおさらだ。
「ケンシン。聞いていたのだろう?」
「……ええ」
目を閉じたままのテミスが、扉に向かって不意に声をかけると、待ち構えていたかのような返事と共に出入り口の扉が開いてケンシンが姿を現す。
「ユーキが無事だったのは僥倖と言うべきですが……どうするつもりなのです? 部隊の到着には時間がかかる、かといってその時間を待っていれば潜入している方々は……」
「アテならあるとも。要はユーキを何とかすればいいのだ」
「っ! まさかっ!」
テミスの顔に広がった意味深な笑みに、ケンシンの顔色が変わる。確かに彼女にとって、ユーキの命と部下の命を秤にかけるのならば、それがどちらに傾くかなどは一目瞭然だ。彼女の命令一つで、潜伏中の部下は喜んでユーキを始末するだろう。
「……それは私が許しませんよ? 貴女が築いた信用の根底には、ユーキの存在があることをお忘れなく」
「フッ……」
ケンシンが体を半身に構え、その言葉に陰りが差し掛かる。しかし、それを見たテミスは不敵に頬を歪めて口を開いた。
「ならばもちろん、私を始末した後でお前達はユーキを救出できるのだな?」
「っ……!」
ケンシンが歯を食いしばる微かな音と共に、何も無い部屋の中に緊張感が降り積もっていく。ケンシンがユーキを救うためにはテミスを頼らねばならず、テミスが生き延びるためにはユーキを救わねばならない。ただし、ユーキの命がテミスの手のひらの上にある以上、これ以上ケンシンが動く事は出来なかった。
「……悪かった。冗談だ」
長い沈黙の後、面白そうに口角を薄く上げたテミスが降参するかのように両手を挙げた。
「何やら面白い勘違いをしているようなのでな……昨日のお返しだよ」
「っ……本当に趣味が悪いですね。私が逸ったらどうするつもりだったのですか?」
二人が言葉を交わすたびに、部屋の中に溜まっていた緊迫感が、風呂の栓を抜いたかのように目減りしていった。
「お前にユーキを見捨てる選択肢なんて無い事くらい、今の浅い付き合いでもわかるさ」
「恐縮です。ですが、本当はどうするつもりなので? 何か策があるのですか?」
「もちろんだとも……。それも、今の状況を一撃で打破する、とびっきりのものがな」
そう言うと、柔和に微笑みながら問いかけたケンシンに、テミスはいつもの凶悪な笑みを浮かべる。
「なんと……確かにそれならば……では特徴などを詳しくまとめて持ってきます」
テミスが作戦の詳細を伝えると、目を丸くしたケンシンがすぐに背を向けて扉へと駆けだす。
「待て」
その背を、テミスの放った鋭い言葉が呼び止めた。
「何か?」
「並行して偽装工作も進めたい。そのまとめが終わったら、私が通信している間にいくつかギルドのクエストを見繕っておいてくれ」
テミスはその声に立ち止まって振り返るケンシンに微笑みながら依頼する。完全にこちらの事情だが、まだ他の軍団の連中に、冒険者テミスと軍団長である私が同一人物だと知られる訳にはいかないのだ。映像が向こうに渡ってしまった以上、保険をかけておいて損はないだろう。
「なるほど……わかりました。では、そのように」
ケンシンは何かを察したように笑みを浮かべてからテミスに頷くと、足早に部屋から去っていくのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
同時刻。拷問施設内最深部・牢獄区画。
警備兵すら命令が無ければ近付かないこの区画に、複数の足音が響き渡る。しかし、その不満そうな顔をした兵士たちの口から漏れるのは、気の抜けた愚痴だけだった。
「ったく……副官ともあろうお方がこんな所に潜伏できるわけないだろ……どうせもう外に逃げちまってるよ」
「ああ。って言うか、見つけたとしても俺達じゃ敵いっこねぇしな。逆にここに回されただけラッキーってもんよ」
「はは……ちげぇねぇ。にしても……くっせぇ……」
しかし、口々に愚痴をこぼす兵士達のすぐ近くで、息をひそめて様子を窺っている一対の瞳があった。その場所は兵士たちの足元。かつてここで作業をしていた怠惰な鉱夫が掘ったのか、通路から隠れるように不自然に空いた空間にサキュドは身を潜めていた。
「……行ったわね」
サキュドは兵士たちが通り過ぎたのを確認すると、小さく呟いてから深いため息を吐いた。それにしても、この空間を見つけたのは幸運だった。テミス様からの連絡を待ちつつ探索し、少しでも体力を温存しようと腰を掛けた場所の真横にこんな物があるとは。
「思ったよりも快適だし……あとはこの子さえ何とかすれば、どうにか持ちそうね」
入り口が非常に狭く造られているお陰か、この奇妙な隠れ家の中は比較的清浄な空気で満たされていた。恐らく、どこか別の場所に通じている穴でもあり、それが通気口のような役割を果たしているのだろうが、あの胸に溜まるような凄まじい臭気から逃れられればそれで良い。
「あーあ……ファントが恋しいわ」
サキュドは心の底から呟くと、テミスからの連絡を待って、数日前まで過ごしていた快適な生活を空想しながら目を閉じるのだった。
9/4 誤字修正しました
2020/11/23 誤字修正しました




