484話 救い求める手
「っ……」
水に濡れた布が火照り傷付いた肌の上を優しく滑り、微かな痛みと共に冷たい安らぎをテミスへ与える。
無論。鎖に繋がれたテミスが自分でそのような事をできるはずも無く、その傍らには甲斐甲斐しく世話を焼く二人の少女の姿があった。
「……痛い?」
「いや……大丈夫だルゥ。すまない……続けてくれ」
「ん……」
ルゥ。それがテミスの顔を覗き込んで、囁くように呟いた少女の名だ。
彼女曰く、逆側で一言も発さずに太腿を拭いてくれている少女……リンの妹で、もうここに来て相当な日数が経っているという。
「せめてこの鎖さえ何とかできれば、自分でできるんだがな……」
「それは無理。抵抗し続ける限り、外される事は無い」
「ハッ……なら、私には一生無理な事だ」
淡々と言葉を告げるルゥに、テミスは皮肉気な笑みを漏らすと嘯いて見せる。
生憎、嘘でも連中に従うという選択は、私にとってはこの忌々しい責めを受け続けるよりも拷問に等しい事なのだ。
ならば、他者に体を開いて清拭を任せる恥など、取るに足らないものだ。
「……聞いてもいい?」
「何だ? 私としては、身の回りの世話を頼んでいる立場だ。大概の質問には答えようじゃないか」
ルゥは清拭の手を、肩から胸、そして腹へ差し掛かった辺りでピタリと止めると、上目遣いでテミスを見上げて口を開いた。
その間も、姉のリンは黙々と手を動かし続け、足先から始まった彼女の作業は、今や腰の辺りまで進んでいた。
「貴女……何をしたの?」
「ホゥ……?」
薄暗い明りの先から向けられたルゥの静謐な瞳に、テミスは片眉を吊り上げて感嘆の声を漏らす。
あの頭の緩い獄吏の言葉や態度などから、推察する要素こそ幾らでもあるだろう。だが、ここでそれを問うという事は……。
「この傷……拷問でのものじゃない」
「……っ」
言葉と共に、細くて冷たいルゥの指が肌を這い、野島に付けられた腹の傷痕の上を撫で上げる。
同時に、テミスは如何ともし難いくすぐったさに声をあげかけるが、意思の力を以て喉の奥へと封じ込めた。
「もう治りかけているけど、まだ新しい」
「クク……良い観察眼だ。如何にも。この町から脱出し損ねてな。その傷はここへ来る前の戦闘で受けたものだ」
「戦闘……」
ボソリ……。と。
ルゥはテミスの身体を拭き終わり、元居た房の片隅へと戻ろうとする姉の身を引き留めて小さく呟く。
薄暗くてわかり辛いが、きっとその揺れる瞳の奥では、目まぐるしい速度で思考が行われているのだろう。
「……取引」
「何だと……? どういう意味だ?」
そして、しばらくの沈黙の後。おもむろに告げられた言葉に、テミスは目を細めて問い返した。
そもそも、取引とは互いに差し出せるものがあって初めて成り立つものだ。今この状況では、この姉妹には元より、私自身にも対価として差し出せるものは何も無い。
「逃げる時。私と姉さんも連れて行って。私も協力する」
「……成る程」
縋るように、そして願うように告げられたその言葉は、淡々と言葉を紡ぐこの少女にしては珍しく、少女然とした年相応の純朴さが感じられた。
だが、テミスとて、見ず知らずの他人を助けている余裕などない状況だ。それに、ルゥが差し出すといった対価も、彼女には悪いが重荷にはなれど助けになるとは到底思えない。
「悪いが――」
「――体。拭いた」
一人ですらこの状況を打破する手立てが見付かっていないのだ。事の次第によっては、分の悪い賭けに出ざるを得ない事もあるだろう。故に、不用意に彼女たちまで巻き込めば、互いにとって不幸な結果にしかならないだろう。
そう考えたテミスが答えを口にしようとすると、その機先を制してルゥが静かながらも強い語調で言葉を重ねる。
「……?」
「動けない貴女の世話をした。一人じゃできない事もある。魔法も使える」
「っ……!」
淡々と簡潔に、しかしどこか鬼気迫る様相で、ルゥは次々と自らの利点を挙げ連ね始める。
同時にテミスは、先程まで自らの身体を拭いていた布を固く握り締めるルゥの手が、その身にこびり付いた、服の残骸を縋るように固く握り締めているのに気が付いた。
「お願い。足手まといにはならない……ようにするから」
「…………。フッ……解ったよ。とは言っても、私もこのザマだがな」
「それでもいい。……ありがとう」
苦笑いを浮かべたテミスが了承すると、ルゥは満足気に微笑んでから姉と共に元居た房の片隅へと戻っていく。
「やれやれ……」
その背を眺めながら、テミスは小さくため息を吐くと、胸の中でひとりごちった。
流石の私も、ああも必死に訴えかけてくる少女の手を振り払えるほど鬼畜ではない。
正直、既に打つ手など皆無な状況。あの二人とて、それは理解しているはずだ。しかし恐らく、これまで為す術も無かった彼女たちにとっては、藁にも縋る思いなのだろう。
「さて……どうしたものか……」
そう呟いてからテミスはゆっくりと目を瞑ると、壁にもたれ掛かかるようにして傷付き疲弊した体を休めるのだった。




