471話 這いずる汚辱
野島奏多という男は、いたくまじめな男だった。
幼少の頃から、早朝に起きては食事の支度をし、学校へ通い、帰宅して家事をこなして眠りにつく。そんな、勤勉に勤め上げていた自分の生活が異常だと知ったのは、中学に進学した時だった。
それは皮肉にも、クラスで孤立していた奏多に絡んだ、一人の不良生徒によって気付かされた。
無論。ただの『遊び』であった不良生徒が、青天の霹靂に打ちのめされる奏多に救いの手を差し伸べる事など無く。その日初めて、奏多は幼少から休まず務めてきた家事を放棄し、家出を敢行した。
だが、その結果は惨々たるものだった。
計画性も人脈も無く、衝動的に行われた家出が成功するはずもなく、警察に補導された奏多を待っていたのは、それまでに倍する地獄だった。
教育を称した父母の虐待は徐々に激しさを増し、体の震えが止まらぬほどの極寒の夜を、水風呂の中で過ごした日もあった。
けれど、彼に差し伸ばされるはずの救いの手は無く、遂に救われる事を諦めた奏多は、肥大化した積年の恨みを世界へ向けたのだった。
これが、事件の後に明かされた事実。
それは、犯人である野島奏多を射殺した警察官・成田正義への批判の薪としていたく優秀な効果を果たしたのだ。
しかしその事実は、正義の……テミスの心中に一つの大きな消えない傷を残す事になる。
その傷とは、可能性という名の無垢な刃が付けたものだ。
それは誰しもが抱く、未来への希望だった。
罪を犯した者が心を改めて更生し、再び正しき道へと還る事ができたのではないか……と。その可能性までもを奪ってしまう手段ではなく、他にもとり得る手段があったのではないか……と。
そして、その正義の声所為で私は……。
「――様! テミス様ッ!!!」
「――ッ!?」
ズキリ。と。
自分の名を呼ぶ声と共に、腹部に走った鋭い痛みで目を覚ました。
どうやら、私は数瞬の間気を失っていたらしい。気付けば、弾でも掠ったのか、側頭部から血が滴っている。
「サキュド! 動かさないで! カルヴァス! 手当をッ!! リック!! そいつを拘束しなさいッ! 早く!」
「ハッ……!!」
「りょ……了解しましたッ!!」
フラフラと頭を押さえたテミスの後ろでは、凛としたフリーディアの声が迅速な指示を飛ばしていた。
傷付いたテミスに処置を施しながら、敵を殺さずに捕縛する。その指示は的確そのもので、彼女が有能な指揮官であることをテミスは改めて思い知らされていた。
だが……ことこの男に限っては、それでは駄目だ。
「ぐっ……」
「……!? テミス!? 動かないで! 傷が……」
「そんなもの……今はどうでも良い」
「――ッ!」
よろり……。と。
テミスは手元に転がっていた銃を引き寄せて握り締めると、傍らに居たサキュドの手を借りて立ち上がった。
そして、床に転がったままミュルクの為すがままに拘束された野島の元へと歩み寄って口を開く。
「あの時と同じだなァ? 気分はどうだ? 野島?」
「アッ……ガッ……何……グッ――」
テミスは嘲笑を浮かべて足を動かすと、言葉を紡ぎ始めた野島の顎を思いっ切り蹴り上げた後、踏みつけにして靴底で抉る。
「工匠曰く……銘はイチイバル。その効能は、私が込めた魔力に応じた特性を持った弾を打ち出す魔銃らしい。指一本動かんはずだが……喋れる辺り改良の余地はありそうだな……」
野島の頭を踏み付けた足をグリグリと動かしながら、テミスはまるで自らの勝利を宣言するように、高らかと自らの銃の秘密を語り聞かせた。
周囲にフリーディア達が居る今、これを語って聞かせるは愚策だが、今は目の前の敵に完全敗北を植え付ける方が先決だ。
「ケッ……なら殺せよ。俺を殺したって、あの女神が――」
「――そう。女神だ」
ゴリィッ! と。
テミスは、周囲に頭蓋が軋む音が聞こえてくる程に強く、魔銃を足の下にある野島の頭へ突き付けて撃鉄を起こす。
「何をまかり間違っても、お前は善人ではない。幾らお前の過去が悲惨なものであろうとも、お前があの被害者たちを殺めた事実に変わりは無い筈だ。ならば……」
「あぁ……死んだのか。あいつ等……」
「っ……!!!」
テミスの言葉を遮って、野島はへらりと笑みを漏らすと、痛快そうに喉を鳴らして肩を震わせた。
「良かった。なら、『あの世界の俺』にも意味があったって訳だ」
「コイツッ……!!」
その言葉を聞いたテミスは、ギシリと銃把を握り締めると、湧き出る怒りを深く飲み下して言葉を続ける。
「お前のように醜悪な人間を、神を自称する連中が何故……? それに、お前は今の私をどうやって探り当てた?」
「クッ……クカカカカッ……!! 傑作も傑作だァ……誰が教えるかよ。バァカッッ!!!」
「……あぁ、そうか。本当に良かった」
「あぁ……? 何が――」
パァンッ!! と。
せせら笑う野島が言葉を紡ぎ切る前に、テミスは魔銃の狙いを変えて一気に引き金を引き絞った。
そして、再び撃鉄を起こしながら、蝋燭が溶けたような歪んだ笑みで宣言したのだった。
「お前が変わらずに居てくれて……だよ」




