458話 白い覚悟と黒い剣
コッコッコッ……。と。
床の上に転がるタケシに歩み寄る、フリーディアの履いたローファーが奏でる硬い音には淀みが無く、再び開かれた瞳には、氷のように冷たい光が宿っていた。
ひと際大きく最後の音を奏で、その脚は短い旅路を終え、虫の息で転がるタケシの間近へと辿り着く。
そして……金属の擦れる甲高い音と共に、ぎらりと黒光りする黒剣が高々と振り上げられた。
「っ――!!」
あの時。
私が声をあげなければ、こんな事にはならなかっただろうか?
剣を振り上げたフリーディアの胸中を、様々な想いが交錯して千々に乱す。
この地面に転がる彼が、テミスに立ち向かわなかったのなら?
私が、この選民街に囚われなければ……?
……違う。
剣振り上げたまま、フリーディアは再び目を瞑ると、ぐちゃぐちゃにかき乱された心の声を全て否定した。
テミスの言う通り、はじめからわかっていた筈だ。彼女に助力を求めればこうなるという事は。それでも尚、私は彼女に助けを求めた。
その時点で、私は選んでしまっている。
この町で虐げられる人々を護るために、この町を支配する人々を切り捨てる事を。
だから……いい加減、目を背けるのは止めよう。
「――っ!?」
心を決めたフリーディアが目を開いた瞬間、その様子を眺めていたテミスは息を呑んだ。
その視線の先……彼女が振り上げた漆黒の剣が、僅かに光を帯び始めたのだ。
「それでも私は……。っ……いいえ。怨んでくれて構わないわ」
「ぅ……ぁ……」
声にならないうわ言を紡ぐタケシを見下ろして、フリーディアは冷たい声色で言葉を紡いだ。
全ては、私の力不足が招いた事だ。
そのせいで死んでいく彼に、私がかけられる言葉なんて無い。
だからせめて――。
「――安らかに」
誰にも届かぬほどに小さな声で、フリーディアはそう呟くと、手にした剣をタケシの首をめがけて一気に振り下ろした。
いつの日か、この剣と同じ色をした漆黒の大剣で、テミスがそうしたように。
祈りを込め、薙ぎ払う。
「…………」
その感触は、驚く程に呆気ないものだった。
考えてみれば、当たり前の話だ。鎧を裂くでも、鱗を断つでもない。柔らかで細い、首を断つだけ。
ましてや動かないそのか弱い標的が、堅牢な守りを固め、動き回るそれらに勝るはずなど無い。
「これで……良いのよね?」
「あぁ」
押し殺した声でフリーディアはテミスを睨み付けると、手にした剣で宙を薙ぎ、その刀身に付着したタケシの血を払ってから鞘に戻す。
「今のお前なら……土壇場で迷う事もあるまい。そう考えれば、そこのゴミにもある程度の価値はあったと言えるな」
「っ……!! 同意はしないわ。けれど、もう迷わない」
「フン……」
テミスはフリーディアが投げて返した剣を受け取ると、ニヤリと頬を歪めて息を吐いた。
そうだ。彼女はもう止まる事は許されない。
タケシという前例を作った以上。この先、彼女は選び続ける事になるだろう。
それがいつまでの事になるか……私の指揮下に居る間までなのか、それとも一生涯引き摺って行くのか……そんな事、私の知った事では無いが。
「ヒェッ――!? ちょ――」
「……ホゥ?」
満足気に思考へ浸るテミスの耳に突然、ミコトの素っ頓狂な悲鳴が飛び込んできた。
何事かと目を開いてみれば、つい今しがた、フリーディアが血濡れたメイド服を脱ぎ捨てたらしく、その透き通った白い肌が、血の海と化した部屋の中で輝いていた。
「時間が無いんでしょう? 着替え。寄越しなさいよ」
「あぁ……ミコ――サキュド。渡してやれ」
「……はい」
一瞬、何も考えずに荷物を持っているミコトに命じかけ、テミスは命令を改めた。
確かに、ミコトにとってコレは目の毒だろう。
というか、フリーディア自身も一目で肌を晒す事は好まなかったはずだが……。
「何よ。まじまじと人の着替えを眺めて……。そういう趣味でもあるの?」
「いいや……少し意外に思っただけさ」
窘めるように睨み付けるフリーディアの視線から逃れるように、テミスはその目を宙へと移動させながら言葉を返した。
だがその一方で、テミスがそのため息が出そうな程に美しい肌に、目を惹かれていたのは間違いなかった。
過酷な戦場の只中に身を置いていながらも、その身体に傷痕は一つも無く、かつてテミスが刻んだ肌も、貫いたはずの肩も、玉のように白く、艶やかな肌が誇るように佇んでいた。
「待たせたわね。さぁ、行きましょう。……指示を」
「よし。ではこのまま屋根伝いに移動して門を突破し、この忌々しい街から脱出する」
「わかったわ。でも、私は貴女みたいにここから飛び降りる……なんてできないわよ?」
「フフ……解っているさ……任せておけ。だが、その前に……」
テミスは、窓から下を覗き込むフリーディアにニヤリと頬を歪めると、その背に近寄りながら呟いて剣を抜いた。
そして……。
「前……? 何を――」
「――動くな。フリーディア」
意味深な言葉に身を起しかけたフリーディアの身体を、テミスの言葉が押し留める。
同時に、ヒャゥンッ! と、空を切る音と共に、フリーディアの首に嵌められていた首輪が軽い音と共に切り落とされたのだった。




