448話 緩やかに囚われゆく心
同時刻。
王宮内の薄暗い廊下を、メイド姿の一人の少女が歩いていた。
美しくまとめられた黄金の髪はうっすらと湿り気を帯び、その髪のかかった頬が上気して火照っている事が、彼女が風呂上りであることを示している。
だが、彼女の首にはめられた銀色の首輪が、この町における少女の身分が奴隷であることを示していた。
「ふぅ……参ったわね……。情報が手に入ったのは良いけれど、どうやって脱出したものかしら……」
ボソリ。と。
メイド服に包まれた己が身を抱くと、フリーディアは大きな窓からチラリと外の景色を眺めながら、深刻な顔で呟いた。
最初は、正体が露見したのかと危惧したけれど、彼等の目的はただ、日々肥大化するこの町で選民たちに奉仕する、使用人の数を増やす事だった。
しかも、容姿が美しい……なんていう下らない理由だったけれど、現在のヤマトの町の中枢とも言えるこの『王宮』で働くメイドに任命されたのは、運が良かったと言うほかなかった。
「急造の町らしく、随所の綻びは多い……けれど、彼等はその綻びを力技で埋めている……」
フリーディアはギシリと手を握り締めると、悔し気に唇を噛んで夜空を見上げた。
今頃、テミスはこちらに向かっているのだろうか? それとも、私の依頼なんて下らないと一笑に伏して、あの温かな町で愚かな私を笑っているのだろうか。
「っ……」
テミスの事を思い浮かべた途端。フリーディアの胸中を、相反する二つの感情が渦巻いて荒れ狂う。
片方は、偏執的なまでに悪を滅ぼす事に拘るテミスならば、必ずこの町に来るはずだという、確信にも似た信頼。
もう片方は、いっその事、テミスが自分を見棄ててくれていれば、彼女を……彼女が作り上げたあの温かな町を、危険に晒さなくて済むという、自己犠牲の皮を被った甘えだった。
「まさか……これ程だなんて……」
窓の外に広がる夜空から視線を落とし、俯いたフリーディアが悔し気に言葉を漏らす。
たとえ、テミスが全軍を率いて来たとしても、この町が擁する戦力には敵わない。
これが、内部に潜入して情報をかき集め、何度も熟考を重ねたフリーディアが出した結論だった。
ならば、一刻も早く脱出して騎士団と合流し、撤退すべきなのだが、首にはめられた奴隷の首輪がそれを許さなかった。
「……剣さえ。剣さえ手に入ればっ……!」
重い足取りを踏み出しながら、フリーディアは思わず胸の内に溜まった思いを口に出す。
無い物ねだりなのは十二分に分かっている。しかし、自分の置かれた絶望的な状況と、決して悪くは無いと思ってしまう奴隷の待遇が、猶更フリーディアの心を焦らせていた。
人手不足を謳うだけあった、王宮に勤めるメイドに休みは無い。
しかし、その労働環境はきちんと整備されており、こうして休む前には入浴する事さえ許されている。
しかも、驚く事に奴隷一人一人に対して、広々とした個室が与えられているのだ。
「こんなの……」
奴隷じゃない。と紡ごうとして、フリーディアは意識して口を噤んだ。
確かに、生活面だけを見れば、ロンヴァルディアの騎士にも勝るとも劣らない環境だ。だが、主たる彼等が奴隷たちに向ける視線は酷く冷たく、まるで物を見るような目である事を、フリーディアは知っていた。
それに、奴隷たちを含む今のこの生活を支えているのは、他でもないこの壁の外で暮らしている人たちなのだ。奴隷になる事さえも許されず、ただただ搾取され続ける彼等の事を、酷く口の悪い選民が『家畜』だなんて揶揄していた事を覚えている。
「……でも」
当初の目的を果たしたとして、この町を破壊したらここで暮らす人々はどうなる?
共に働くメイドたちは、休みや自由が無いのは辛いが、貴族様のような生活をさせて貰えているのだから仕方ない……などと、口を揃えて言っている。
この町が虐げる人々を救ったのならば、彼女たちは間違いなく今の生活を失う事になるだろう。
少なくとも、フリーディアの知る限り、このヤマトの選民街のような生活は、ロンヴァルディアの王族貴族か、テミスの治める『あの町』しか存在しなかった。
「いいえ……。この町はファントとは違う」
きっぱりと。
自らに与えられた部屋に辿り着いたフリーディアは、扉を開けて中へと入りながら自分の思考を否定した。
あの町の住人は皆、自由と平和を謳歌し、互いに助け合ってその暮らしを支えている。
故に、その目は常にきらきらとした生気に満ち溢れ、温かい笑顔で満ち溢れていた。敵であるはずのテミスが治める町だけれど、フリーディアはそんなファントの町が大好きだった。
けれど、この町にそんなものは無い。
或るのはただ、事実としてだけの平和と安穏。そこの中心にあるはずの大切な何かが抜け落ちているからこそ、このヤマトの町は空虚な笑顔と虚ろな瞳が、緩やかな毒のように未来を奪っている。
「っ……!! 絶対に忘れない。あの目を……希望をッ!!」
そう、フリーディアが頬を叩いて萎えかけた心に活を入れた瞬間だった。
「クク……。存外解っているじゃないか。能天気なお前の事だ……この町の人の為なんて抜かして、腐った眼で甲斐甲斐しく働いていたらどうしてやろうかと思っていたが……頭の中の花畑も、少しはマシになったらしい」
フリーディアの前へ、皮肉気な声と共に白銀の影が軽やかに姿を現したのだった。




