443話 地獄の扉が開く時
「やれやれ……。とんだ一日だったな……」
食事を終え、自室に戻ったテミスは深いため息を吐くと、自らのベッドに腰を掛けてボソリと呟いた。
今頃隣の部屋では、私以上に精神をすり減らしていたミコトが、疲れ果てて眠っている事だろう。
「はい。ですが食事は美味しかったです」
そんな、誰ともなしに呟いた愚痴に、隣のベッドに身を投げ出していたサキュドが、むくりと半身を起こして返事を返す。
「お前は豪胆だな。あんな空気の中で味を楽しむ余裕があるとは」
「くふっ……畏れながら。どうするのか決定するのはリヴィア様ですので」
「フン……お前はただ、気楽にその『時』を待っていればいいだけ……。という訳か」
「はいっ」
サキュドは自らの意思を汲んでニヤリと笑みを浮かべたテミスに、にっこりと満面の笑みを浮かべて元気よく肯定した。
それは、テミスの判断を全面的に信頼しているが故の言葉であり、テミスもまたそれを理解しているからこそ、ただ満足気に微笑んでいた。
……まったく、どこまでもプレッシャーをかけてくる奴だ。
テミスは心の中でそう呟くと、柔らかな笑みを浮かべたままごろりとベッドに寝転がって天井を見上げる。
そこには、見慣れた質素な木目の天井は無く、豪奢に磨き上げられた白磁のような天井が無機質な光を放っていた。
「剣聖に精霊術……それに厄介なオマケときた……」
テミスは食堂での一件を回想しながら、改めて現状を分析する。
タケシが去り、地獄のように重い雰囲気となった食事の場で、テミスは懸命に情報を引き出そうと口車を働かせたが、大した情報を引き出す事は出来なかった。
せいぜい得られた有益な情報と言えば、この『選民街』が大した広さは無く、その住民の実に半数以上が選民に仕える事を選んだ奴隷で占められている事くらいだろうか。
ひとまず、この住居……寮と言い換えても良いが、ここに住んでいる者の中では、フィリップとタケシは兎も角として、動きの読めないオズと一国を滅ぼしたというユウが当面の問題だ。
そもそも、ユウが未だに精霊魔法を扱えるのか。最大の問題はここに帰結するだろう。
「敵の戦力は未知数……対して此方の戦力はたったの三人。ハァ……泣きたくなるような現状だな」
「ふふふっ……でも、楽しそうですね?」
「クク……まぁな……」
二人は顔すら合わさずに言葉を交わすと、まるで示し合わせたかのように、同時に邪悪な笑い声を漏らす。
そう。状況が困窮しているのなんていつもの事だ。一歩でも踏み外せば、欠片のように小さなミスを犯せば、全てが瓦解して死に直結する。この世界が私に与えたのは、そんな過酷な環境だった。
だが、こと私にとってはそんな差は些末な物だ。
今の所、この世界は正しい選択をすれば、正しい結果を私の元へと届けてくれる。
ならば、正しい選択をしたにも関わらず、全てを奪われたあの世界よりも、苦しく厳しい状況であるなどとは到底言えないだろう。
「所でサキュド。気付いているか?」
「えぇ……まぁ……。お楽しみを奪ってはいけないと、最低限の結界魔法を部屋に施すのみで自重していたのですが……。私の方で対処した方がよろしいですか?」
「まさか。独り占めは良くない……。そうだろう?」
「っ――」
ぞわり。と。
蝋燭の溶けたように歪んだ笑みを浮かべたテミスがそう告げた瞬間。サキュドの表情が一変した。
半月状に釣り上げた口角は、まるで頬が裂けているのかと錯覚する程に歪められ、そわそわと宙を動く指先から堪え切れずに漏れ出る魔力が、彼女の狂喜を如実に表していた。
「ア……アハッ――。本当に……本当によろしいのですか?」
「クククッ……。勿論だ。お前も随分と堪えただろうからな。ただ……」
「えぇ……えェ……ッ!! 承知しておりますとも!! 選民同士での揉め事や諍いは厳禁……加減は死なない《・・・・》程度に《・・・》ですよね?」
ふるふると体を震わせながら、感激に身を浸しているサキュドは、テミスの忠告を遮ってコクコクと激しく首を縦に振りながら問いかける。
加減は死なない程度。何をどう聞いても、敵地に潜伏している者から出る言葉とは思えないほど不穏なものだ。しかしここには、彼女たちにとっては幸運な事に、理性となるべきもう一人の忠臣は居ない。
故に。その愉悦は留まる事を知らず……。
「あぁ……。解っているじゃないか」
天井知らずの邪悪な狂笑が、豪奢に彩られた部屋の中を満たしていく。
そしてそんな地獄へ導かれるように、彼女たちに与えられた部屋のドアが、感情の隠しきれない声色と共に乱雑に叩かれる。
「オイ……! 俺だ。タケシだ! まだ起きてるんだろ? 開けてくれよ。さっきの事で話がある。……仲直りがしたいんだ」
「ンククッ……。では、サキュド。命令だ」
何も知らぬその粗野な声に、テミスもまた堪え切れぬ愉悦の笑みを漏らすと、ゆらりと立ち上がってゆっくりとドアへと向かう。
そして、その短い道中で。既にベッドで布団に包まっているサキュドへ視線を向けると、破顔したまま言葉を続けた。
「愉しむぞ」
「仰せのままに」
テミスはそう短く言葉を交わした後、カチャリと部屋の戸にかけられた鍵を開いたのだった。




