35話 堅牢なる巌
「っ……すまない。暫くこちらに逗留したい。幾らだ?」
この世界に来てからと言うもの、マーサの宿屋のような食事処を兼ねている形式しか見ていなかったので驚いたが、カウンターの中の主人に声をかける。
「ハハッ、威勢の良い嬢ちゃんだな。家族部屋なら閃貨1枚だ」
主人の種族はドワーフだろうか。宿屋の主人と言うには逞し過ぎる髭面の親父が愉快そうに声を上げた。
「家……族? いや……っ!」
あの妙に生ぬるい視線はそういう事だったのか。テミスは宿屋の主人に言われて初めて気が付いた。
冷静に考えてみればそうだ。マグヌスはボロを纏っているから一目で種族はわからないし、今のサキュドは大人形態。なるほど。身長差から考えても、傍から見れば旅をしている家族連れに見えない事もない。
「くっ……いや、私達は家族ではないんだ」
マグヌス達が順に、後から続いて入ってくる音を聞きながらテミスは答えた。先程もそうだったが、何だこのいたたまれない気持ちはっ!
「フム……? 3部屋だと一泊で閃貨1枚と木貨4枚だ」
「いや、2部屋で良い。人貨は使えるか?」
「……ああ、使えるとも。料金は先払い、次の日も泊まるのなら前の日の朝に払ってくれ。構わなければそこの台帳に名前やら書いてくんな」
深いひげに隠れて表情こそ読みとれないが、主人の言葉に若干、苛立ちのようなものが混じる。
「……つまり、初日の今日は二日分という訳か」
「ああ。明日も泊まるならな」
「承知した……っ」
テミスは店主に頷き、大量の羊皮紙が挟まった台帳を開く。そこには、手書きにしては精緻な作りの書類が挟まれていた。
「粗野なのは外見だけのようだな……しかし……フム……」
テミスは誰にも聞こえない声でひとりごちりながら、書類の内容に頭を悩ませる。そこには性別や種族だけでなく、職業や出身地などと言った踏み込んだものの欄もある。
どちらにしても、全て本当の事を書く事は出来ないだろう。性別はともかくとして、隠密行動をしている今は種族・職業・出身地などを馬鹿正直に書くのは愚の骨頂だ。
「テミ……ウルゴスで良いか」
「テミス様」
頭の中に浮かんだ適当な名前を記入しようとした途端。後ろから気配も無くサキュドの手が伸びて来て、手に持っていた羽ペンをするりと奪い取った。
「っ! サキュ……ゴホンッ! お前っ!!」
「お気持ちは解りますが、この宿でソレはご法度です」
「……なに?」
サキュドはよそ行きの口調でそう言うと、台帳に手をかざして魔力を込めた。
「待てっ! 何を――」
するつもりだ。と紡ぐはずだったその先の言葉を、テミスは無理矢理喉の奥へと飲み込んだ。サキュドが魔力を込めたその先、台帳に挟まれていた羊皮紙が青く発光し、薄い魔法陣が浮き上がっている。
「これはっ……」
「ただの隠蔽術式と感知術式だよ。商売柄、後ろ暗い奴等はお帰りいただいてるんでね。ま、アンタの連れならその辺も心配しちゃいないがな」
「フンっ……」
そう言ってカウンターの向こうの主人が不敵に笑う。その一方、鼻を鳴らしたサキュドの隣で、テミスは一人戦慄していた。
油断していたとしか言いようがない。もしくは、転生したが故の慢心とも言えるだろう。中世のような風格のこの世界で、こと情報管理やその類のセキュリティは現代を上回る事が無いとタカをくくっていた。魔法なんていう異なる技術が発達しているにも関わらず、たかだか数か月を暮らし、戦った程度で理解したと本気で思っていた。
「っ…………」
「ですからテミス様。ここには本当の事を……テミス様?」
「……いや……何でもない」
テミスは衝撃を押し殺しながら答えると、サキュドからペンを奪い返して書類に記入していく。そして、つらつらと書き連ねていったその筆は、ある一つの項目で停止した。
「……参ったな」
「どうしたんだ?」
テミスが顎に手を当てて考え込むと、主人が対面から台帳を覗き込んだ。
「ほぅ……お前さんが噂の……」
「噂だと?」
主人が呟いた言葉に、テミスの眉がピクリと跳ね上がる。『噂』が持つ威力は身を以て知っている。ただ人間であるというだけの物なら良いが、無用な波風は勘弁してほしい。
「大層な武勇譚さ。人間の癖に単騎で魔王城に乗り込んだと思ったら軍団長3人を相手に善戦。更にはたったの三騎で人間軍を撃退した上に、バルド様の仇を討ったとくらぁ。正直眉唾だぁね」
「貴さ――」
「ハハッ……何ともまぁ。だがしかし、噂などそんな物だろう?」
今まで扉の外を警戒しながら押し黙っていたマグヌスの気炎を制しながら、テミスは笑い声を上げる。この男……サキュドはある程度の信頼を置いているらしいが、油断はできない。その実力から順当に考えるのならば、ドロシーの枝と言った所か。
「全くだ。んで? 出身地がかけないとはどういう事だい?」
「…………」
気楽な口調で問いかけた主人に対し、テミスの瞳に警戒の色が浮かぶ。ドロシーの枝であるならば、探り方が粗過ぎる。かといって、ここで下手に問いをはぐらかしても不信感が増すだけだろう。
「……私は昔の記憶が無くてな。気が付いたら旅人をしていたんだ」
「そいつはなんてーか……難儀だな。そういう事なら空欄で良いぜ」
「すまない」
テミスが軽く頭を下げると、気楽な雰囲気を纏っていた主人の眉に皺が寄った。
「こっちのセリフだぜ全く……。んじゃ、最後の質問だ。この町に来た目的はなんだ?」
「っ…………」
ペンを置いたテミスが顔を上げると、元の雰囲気の戻った主人がぶっきらぼうに尋ねる。形式的に放たれた質問であったが、形式的であるが故にその質問は意図通りの効果を発揮していた。
「いっ……慰安だ!」
「慰安?」
いつもより少しトーンの高いテミスの声が、受付に響き渡った。たとえ、この主人が本当に枝でなかったのだとしても、隠密行動である以上本当の目的を明かすのは論外だ。
「ああ。人間軍を撃退した噂はあっただろう? その件で報奨を戴いてな」
「……ふぅん? だが、そっちの嬢ちゃんは前にあそこが気に入らなくて暴れたんじゃなかったっけか?」
「っ……それは……」
テミスと主人がサキュドの方をチラリと見やると、彼女は気まずげに二人から視線を逸らした。
「……ま、詳しくは詮索しないがね。あそこをどうこうしようってんなら止しときな。いかに新進気鋭の十三軍団長様でも荷が重い」
「フン……それだけ上等な施設だという事なのだろう。期待するとしよう」
「ヘッ……まぁいい。んじゃ、部屋に案内する。ついてきな」
そう言うと主人はカウンターから出て、台帳を手に持つと細長い廊下の先にある階段をのぼりはじめた。
「意外かい?」
「いんや。見上げた防犯意識だ」
テミスは得意気な顔で振り返る主人に冷たく返すと、マグヌス達を従えて主人の後を追った。
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