373話 月下の密約
その日の夜。
病室を抜け出したミコトは独り、病院の屋上で大きな月を眺めていた。
「月だけは……あの世界と変わらない……」
ボソリ。と。
胸の中を満たしつつある感情に浸りながら、ミコトはその全身に夜風を浴びる。
今からやろうとしている事はきっと、彼等に対する裏切りなのだろう。けれど、トーマスの目的が判った以上、保険は掛けておかなければならなかった。
「……どうしたのですか? わざわざこんな所へ呼び出して……」
そんな背中に、静かなトーマスの声が投げかけられる。
すると、ミコトはゆっくりとトーマスの方へ向き直ると、薄い笑みをその顔に湛えて口を開いた。
「先生……僕と取引をしませんか?」
「フフ……面白い子だ。続けて?」
この話は、ミコトにとって一つの大きな賭けだった。
トーマスの話が本当ならば、彼は心を読む事ができる。それがどの程度のものなのかは分からないが、そんな相手が間近にいる以上、この話は避けて通る事ができないものだ。
「先生は、ゆくゆくはこの国を……エルトニアを潰したい。そうですね?」
「まさか! そんな事をする筈が無いじゃないか! いつか……仲間の仇は、取りたいと思っているけれどね」
ミコトの問いに、トーマスはおどけた様に大きくリアクションを返した後、柔らかな微笑を大きく歪めて言葉を付け加える。
それは、イエスともノーと取れる曖昧な答え。だが、ミコトにとっては、この言葉を引き出しただけで十分だった。
「僕達は……僕は、この世界で皆と楽しく生きていきたい……。それこそ、大人になってそれぞれが相方を見つけた後も、足腰が立たない程の年寄りになっても……」
「うん。知ってるよ……たぶん、君達を除くこの世界の人間の中で、僕が一番それを良く知っている……」
煌々とした月明りの下で、二つの笑顔が火花を散らし、静かな鍔迫り合いを繰り広げていた。
そもそも、こと心理戦である交渉事において、心を読めるトーマスを相手に、ミコトが勝てる隙など一分も無かった。
それは例えるのなら、ミコトだけ手札を全て公開してカードゲームに興じるようなもの。一挙手一投足が読み取られ、そこには戦略の介在する余地など無い。
――ならば。
「先生がエルトニアを潰してしまったら、それは到底叶わない。だから……保険を掛けておきたいんですよ」
「保険……ですか?」
「はい。もしも、先生が僕達を見棄てた時の為の保険を……です」
ミコトは一切の隠し事をせず、トーマスへ打ち明ける事にした。ミコトが求めるのは、安住の地。仲間達と共に暮らす事のできる地を確保する事。
対して差し出すのは、ミコトがこの世界に来てから、様々な可能性を鑑みて行ってきた数々の暗躍。その成果を明かした上で、トーマス自身に『使える』と判断させるのだ。
「残念ですが、それは取引とは言えませんね。ミコト君、取引というのはただお願いをするのではなくて――」
「――僕は、魔王軍の軍団長に伝手がある」
「……っ!!」
ミコトはトーマスの言葉を遮ると、力の籠った言葉と共にその目を見返した。
刹那。ひと際強い夜風が吹き渡り、ミコトの短い髪や病衣の裾がはためいて揺れる。
「その軍団長は、残念ながら指揮権はありません。ですが……彼女から得られる情報を使えば、僕たちはこの戦場を支配する事ができる」
「………………」
「……加えて、トーマス先生の目的を鑑みても、僕と先生は協力するべきだと思いますが……どうでしょう?」
静かな笑みを湛えたまま、ミコトは黙り込んだトーマスに向けて必死で言葉を紡いだ。
それはまさに全賭けだった。
手の内、心の内を全て明かして、自分の目的とトーマスの目的が合致する事を示す賭け。あとは、トーマスが乗るか反るかを決めるだけだ。
「…………やれやれ」
「……」
長い沈黙の後、トーマスは小さくため息を吐くと、柔和な笑みを浮かべて肩をすくめて声を上げる。
それは、まるで呆れたような素振りでありながら、どこか嬉しそうに見える。
「本来なら、君を枝としてお上へ突き出す方が賢いのでしょうね……」
トーマスはゆっくりとミコトの隣へと歩み寄りながら、笑顔を崩さずに言葉を紡ぐ。
「及第点です。どうやって縁を結んだのかは知りませんが、件の軍団長の事を『彼女』と言い表してしまったのは失点ですよ?」
「っ……! それは……確かに……」
トーマスはクスクスと笑い声をあげると、立ちすくむミコトの肩に優しく手を置いて言葉を続ける。
「けれど……それで本当に良いのですか? 僕には、それをレオン達が望むとは思いませんが」
「良いんです」
ミコトはまるで心配するかのように問いかけるトーマスへ即答する。
確かにこれは、この国で……この世界で皆で生きていくというレオン達への裏切りだろう。
だけど、僕は絶対に未来が見たい。
誰がどうなるのかは判らないけれど、僕の子供が友達になってじゃれ合う姿を、皆と一緒で傍らから眺めたい。
その為なら……。
「もともと、僕一人でやろうとしていた事ですから。それに、先生の口添えがあれば、本当に裏切り者になる必要はありません」
「……確かに、極秘任務扱いにできなくはないが……やれやれ」
ミコトの見せた覚悟に、トーマスは再び大きくため息を吐くと、視線を空へと向けてポツリと零す。
「……その目。僕は知ってます」
「えっ……?」
「仲間を想う、綺麗な目だ……。そう、あの日の彼等もそんな目をしていた……」
「っ……!!」
トーマスは何処か懐かしむような顔でそう告げると、ミコトへと視線を戻して右手を差し出す。そして、ニッコリと笑みを浮かべて口を開いた。
「良いでしょう。今この瞬間から、僕と君は共犯者だ。色々と計画を変更する必要がありますが……それは君が完治してからにしましょうか」
「っ! はいっ! よろしくお願いします」
ミコトは飛びつくようにトーマスの手を取ると、大きく頷いて握手を交わす。
これで、ひとまずは安泰。少なくとも、トーマス自身の手によって特務部隊が切り捨てられる事は無くなった。
「フフ……良い取引でした……」
「僕も、そう思います」
握手を交わしたまま、二人は満足気に言葉を交わす。その頭上には、静かに辺りを照らす満月が浮かんでいたのだった。




