32話 囁く不穏
「ハァ……下らん……」
魔王城の外周に設えられた廊下でテミスは一人、深いため息を吐いた。
ここは、今日呼び出された時に見つけた場所で、広く採光の取れた窓からは若干西に傾きかけている太陽が、さんさんと温かな光を投げ込んでいた。
「やぁ、テミス軍団長殿。お疲れのようだね」
不意に。音も気配も無く、真後ろから若い男の声が投げかけられる。
「っ……! ああ、失礼した。どうもああいった場は苦手でな……」
「フフッ……。わかるとも」
声の元へ顔を向けると、涼し気な笑みを湛えてウェーブがかった黒髪を持つエルフの男が佇んでいた。
確か、この男は先ほどの会合に居た……。
「ところで、貴殿は? 見た所軍団長殿のようだが?」
「これは失礼。僕はルギウス。ルギウス・アドル・シグフェルだ。お察しの通り、
第五軍団の軍団長さ。ルギウスと呼んでくれ」
「では、ルギウス殿と。して、何の用だろうか?」
一応、確認の為に問いかけると男は首肯して名を名乗った。あの部屋は蝋燭の明かりだけだったので暗く、顔はあやふやだったのだが、やはりそうらしい。
「ああ、なに。まずは就任の祝辞を述べさせて貰うよ。軍団長就任おめでとう」
ルギウスは流れるようにテミスの隣へ体を落ち着けると、柔らかい笑みを浮かべて手を差し伸べてくる。
「ああ、わざわざ言いに来てくれたのか。感謝する」
雰囲気といい表情といい怪しさしか感じないが、ひとまず相手に合わせて様子を見よう。と、テミスは笑顔を張り付けて差し出された手を握り握手を交わす。
「……ルギウス殿?」
しかし、ルギウスは握手を交わした後テミスの手を放さず、うっすらとした笑みを浮かべたままテミスの瞳を覗き込むようにじっと見つめていた。
「ところで……だ。先程の説明によると君は、魔王様の命無く独断で動く事を許されているとか……」
「…………それが何か?」
そらきた。テミスは不快感を露わにして、自らの手をルギウスの手の内から抜き取ると、腕組みの姿勢を取った。
リョースやマグヌス達もそうだったが、敵であった者を受け容れるなど容易な事では無い。それが戦時中ともなれば尚更で、こうして友好的に話しかけてくる者ほど怪しさが臭い立つと言うものだ。
「まぁまぁ、ところでこんな話を知っているかい?」
ルギウスは人の好さそうな軽薄な笑みを張り付けたまま、空になった手を腰に当てると話を続けた。
「ポルム軍団長率いる第二軍団旗下……北部戦線だね。そこのとある町に大規模な歓楽施設があるらしい」
「歓楽施設……ね」
テミスは眉をひそめて息を吐く。古今東西、歴史を紐解いてみた所で、戦時下の歓楽施設などロクなものがあった試しが無い。おおかた、捕虜として連れて来た人間達を収容し、玩具にするための施設だろう。
「お察しの通りさ。戦時中の歓楽など一つしかない」
「だが待て。そんな事をギルティアが……ギルティア殿が許すわけがないだろう?」
「ああ。故に噂。故に非公式って訳さ」
単なる嫌がらせか、それとも洗礼のつもりか。兎にも角にも、この男の真意が掴めない以上、下手な発言は控えるべきだろう。
「何故その話を私に? 私は人間だ。好き好んで同族を嬲る趣味があるなどと思われては心外だな?」
テミスは組んでいた手を、頭痛を堪えるように額に当てて不満をアピールした。
正直に言ってしまえば、はらわたが煮えくり返るようだ。あの魔王、大言壮語を吐いておいてなにもできてはいないではないか。しかも、その手の施設に囚われるのは決まって罪の無い民間人なのだ。
「正直言ってね。僕は今の魔王軍の空気は好ましく思っていないんだ」
そう言うと、ルギウスはテミスから視線を逸らして、物憂げに窓の外に広がる城下町の風景へと移動させる。
「魔王軍は外敵に対抗するのに手一杯で、身内の虫を濯ぐ暇もない。それを良い事に外敵にも劣る害虫が我が物顔で享楽を貪っている。本当に不快極まりないね」
そう言うとルギウスは何処かの光景でも思い出したのか、その整った顔を醜く歪めると、吐き捨てるように呟いた。そして、一瞬で元の張り付けたような笑みに戻ると、肩をすくめて続ける。
「かといってそのままじゃ収まりが悪いからね。そこに、テミス軍団長。誇り高き君の噂を聞きつけたって訳さ」
「無理だな」
横目で得意気な視線を送られたテミスは、瞑目して迷うことなくルギウスの言葉を切り捨てた。
「……理由を、聞いても?」
少しだけ。本当に少しだけ、驚いたような表情を浮かべたルギウスが再びテミスの顔に視線を向けると、その視線の先でテミスが事務的に理由を述べ始めた。
「まず、我が十三軍団は数が少ない。そもそも敗残兵の残りから有志を募った部隊だ。君たちの旗下とは比べ物にならんだろうさ」
「次に、今の私達にはファントの防衛・復興という任がある。その任がある以上、おいそれとは動けんさ」
テミスは建前上の理由を並べ立てると、一呼吸息を吐いてその目をゆっくりと開いた。
この男の話が本当ならば、今すぐにでも撃滅に動きたいところだが、あくまでも伝聞である上に、この男はこの話を始めるにあたって噂話と銘打っている。今の情報だけで判断するのであれば、人間の分際で魔王に取り立てられた小娘を良く思わない者……という可能性の方が高いだろう。
「……なるほど?」
ルギウスはそう言ってゆっくりと瞬きをすると、不意に。ルギウスの笑みに邪悪な影がよぎった。
「ところで、ファントの町には大層飯が美味い宿屋があるらしいね?」
「っ……貴様……」
弾かれたようにテミスが身を起こし、二人の視線が火花を散らす。一方的に敵対心を持たれるのは慣れているが、この状況はいささか分が悪い。言うなればこの男は今、人質を取っていると宣言したのだ。
「第一軍団や第四軍団の兵が言ってた事さ。何より、可愛らしい看板娘が二人もいるらしい」
そう涼やかに告げるルギウスとは対照的に、テミスの頬を冷や汗が滴った。一体どこまで情報が漏れている?
食えないとは思っていたがこの男、かなり情報を集めるのが上手いらしい。現に、唯の世間話である一兵卒の話題から、私の致命傷とも言える弱点を突き止めている。
「…………それは、脅迫のつもりか? ここで切り捨ててやっても構わんのだぞ?」
長い沈黙の後。犬歯をむき出しにしたテミスの手が、壁面へと添えられる。この場で暴力に訴える行為は弁舌戦での敗北に等しいが、この先を操り人形として過ごす事に比べれば、その程度の屈辱は必要経費とも言えるだろう。
「おっと……止してくれよ。癇に障ったのであれば謝罪しよう。君の力に興味はあるけどね……それよりも、僕は君と仲良くしたいんだ」
意外にも、ルギウスは小さく両手を挙げて白旗を挙げると、素直に軽く頭を下げて謝罪する。
「…………ならば、そういった論調は止めておくのだな。微塵たりとも付き合いたいとは思わん」
数秒の逡巡の後、テミスの手が石壁からするりと離れた。同時にテミスは身を翻すと、そう言い残してルギウスに背を向け足早に歩を進める。
「信じてるよ? 『正義』を信じる君なら必ず動いてくれると。お礼はするからさ」
その背に向かって、苦笑を浮かべたルギウスの言葉が投げかけられる。
「……下らん」
しかし、テミスは反応することなく、ただ一言そう呟いたのだった。
9/4 誤字修正しました
2020/11/23 誤字修正しました




