331話 心の在処
一方そのころ。
南方での激戦など露ほども知らないテミスは、平和の戻ったファントの町で人生を謳歌していた。
「くふ……くふふふふっ……!! これぞ生! あるべき生活というものだっ……!!」
テミスは宿屋の風呂に浸かりながら、満足気な笑みを浮かべて手を宙に翳す。
朝起きて店を手伝った後詰め所に向かい、昼過ぎまでに仕事を終わらせる。内政を終わらせれば、後はひたすら鍛錬に打ち込むのみ。そして、何事も無ければ日が暮れるまで汗を流し、後は夜の宿屋を手伝うなりすれば、程よく平和的に疲れた体を、温かい湯と柔らかいベッドが待っている。
「……。これで後は……」
人間達が攻めて来ない状態を作り上げれば、私の役目は終わりだ。
パシャリ。と。テミスはおもむろに湯船の湯を持ち上げると、無意味にそれを落としながら思案に耽った。
――本当にそれでいいのか?
フリーディア達との欺瞞戦闘の後処理が終わり、ファントに平和が戻ってから、幾度となく自問し続けた問いを、テミスは再び自分へと投げかける。
ファントとラズール……そしてプルガルド。それぞれに差異はあれど、これらの町は今や人魔共栄の一途を辿っている。何ならここに、秘密裏に協力関係を築いているテプローを含めても良いだろう。
人と魔が共存し、笑い合う世界。ギルティアが力を以て成そうとし、フリーディアが博愛を以て作ろうとした世界は、規模は小さいながらも確実にここに相成ったのだ。
「……温かい」
テミスはそう呟くと、風呂の湯をかき回してそれを噛みしめながら、漫然と揺らぐ心に再び問いかける。
平和はここに成就した。ならば私の求める物はもう、ここには無い筈だ。
「っ……。あぁ。わかっているとも……」
自らが問いかけた問いに、テミスは心が抉られるような苦しみを感じると、歯を食いしばって漏れそうになる弱音を噛み殺した。
平和ならそれでいいじゃないか。この町を護り、この町で生き、この町で暮らせば良い。アリーシャたちもきっと喜んでくれるし、町の皆だってきっとそれを望んでくれるはずだ。
「……だがッ!!」
自らの希望が吐き出す言葉を、テミスは振り払うように激しく首を振るって拒絶する。
戦争が終わった訳ではない。確実に、今この瞬間も自らの力を振りかざし、理不尽に人々を虐げる奴が笑っている。
ならば、それを探し出し討ち取る事こそが……私がこの世界へ産まれ直した意味なのではないか?
「……止めだ」
長い沈黙の後。テミスは全身の力を抜いて湯に身を任せると、投げ捨てるかのように呟いた。
条約が条約として機能しない世界なのだ。いくら考えたところで出る答えは一つに集約する。
ファントを守りながら、己が宿命を果たすのみ。
イゼルに攻め込むのが芳しくない現状、テプロー経由で探りを入れるか、ラズールの平定に力を貸す程度しかできる事は無いだろう。もしくは、また旅人としてロンヴァルディアへ忍び込み、内情を探るのも手かもしれない。
「平穏の中で血風に焦がれる……私の本質なぞ所詮、そちら側のモノなのだな……」
湯に身を預けたままテミスはそう零すと、寂し気な笑みを浮かべて独白を続ける。
「誰かが泣いているのを見るのは嫌いだ……。だがそれ以上に、誰かを泣かせる奴を笑っている奴が存在するのが嫌いだ」
そう。結局の所、私は何処まで行っても善人になる事は出来ないのだ。
救うべき者と滅すべき者を目の前にした時、私は迷わず後者を滅ぼす為に行動するだろう。例を挙げるのなら、ひき逃げや通り魔。目の前で人が重体になったとしても、私は介助より追跡を優先する。
「他の何物を差し置いてでも、ただひたすらに悪を討滅する……。それが正義と云うモノだ」
テミスは、まるで自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐと、のろのろとした動きで立ち上がって湯から上がる。
そう。正義はヒトを救わない。
ただ、悪を滅ぼした結果として、誰かが救われているに過ぎないのだ。
「だが……それは……」
風呂場の戸口まで歩いたテミスは突如立ち止まると、その瞳を迷いに揺らして独りごちる。
私の想いは矛盾している。アリーシャ達を想う心と、悪徳を滅ぼす志は真逆の物だ。きっといつの日か、私は選択を迫られることになるのだろう。アリーシャ達無辜の人々を救うのか、それとも、罪無き人々を見捨てて、悪逆を斬り滅ぼす事を選ぶのか……。
「っ……だからこそ……もっと強くッ……!!」
テミスはそう呟くと、力を込めて拳を握りしめると、表情を引き締めて風呂場を後にする。
だが翌日。
そんなテミスの元へ、ギルティアからの勅命が届いたのだった。




