326話 別れの儀式
「子供……か……」
人ごみを抜け、町の郊外までやってきたレオンは、ボソリと呟くとようやくその足を止めた。そして、再び近くの壁へ背を預けると、町の中心を離れてやっと顔を見せた青空へと視線を向ける。
我ながら、あのファルトに対して、よくもまあ偉そうな口を叩いたものだ。自分の心もいまだ定まっていないというのに……。
心の中でそう自嘲すると、レオンは腰に提げたガンブレードへ手を添えて、思考の海へと自らの意識を沈めていく。
まだ、引き返す事は出来る。
レオンを悩ませているのは、たった一つのこの事実だけだった。
士官候補生として士官学校へ入学する事を選択したのが、間違いだったとは思わない。事実、雨風凌げる立派な宿舎や温かい食事、柔らかい布ベッドなどの安定した生活が保証され、授業で拘束される時間はあれど、その内容は有益な物だった。
だが、ここから先はそういう訳にはいかない。
軍隊とは、これまでこの国から施されてきた教育という名の負債を返還するための場所だ。培った知識を生かして前線で戦い、化物共を殺し、血と硝煙にまみれた危険な生活が待っている事だろう。
任務で方々を飛び回る事は出来るだろうが、それはもう俺達の目的の範疇を越えている。
「クッ……」
ぎしり。と。
レオンは歯を食いしばると、歩いてきた後方の空へと視線を向ける。そこには、相も変わらず蒸気で閉ざされた、薄暗い空が広がっている。レオンは、この薄汚い色の空が大嫌いだった。
――何故なら。
「…………瀬良っ!」
ぎりぎりと食いしばられたレオンの口から、一人の少女の名が零れ落ちる。
瀬良杏奈。それはレオンにとってクラスメイトであると同時に、産まれて初めて淡い思いを抱いた、初恋の相手の名前だった。
ただ、元の世界に戻りたい。この一年の間、レオンを突き動かしていたのは、不純ともいえるこの純朴な想いだけだった。別に、恋人だった訳ではない。ただひたすらに、想い焦がれていただけ。太陽のように笑う彼女の笑顔に、教室の隅から見惚れていただけだった。
だが、気が付けば友人と共にこんな世界に放り込まれ、必死に日々を良く抜く間に、訳の分からないまま一年という月日が流れてしまった。
「諦める……べきだろうな……」
青空に背を向け、蒸気に煙る薄暗い空を見上げながら、レオンは小さく呟いた。
確かに、優しかった両親が居て、平和な時間が流れていたあの世界に戻りたい気持ちもある。産まれて初めて抱いたこの恋という感情に、決着を付けたいという欲求もある。もしかすれば、瀬良と恋人同士になれる可能性だってあるかもしれない。
しかし。レオンは、自分の中の冷静な部分が、そんな郷愁と情愛に焦がれる心を、冷静に切り捨てているのを自覚していた。
「シャルロッテは、もう動いている……。恐らく、ミコトも……」
考えてみれば、士官学校へ入ろうと言い出したのもアイツだった。元の世界へ戻る手立てを探す為に授業を抜け出すときも、アイツだけは最後まで強固に反対し、一人で残る事もしばしばあった。
たった一人、性別まで入れ替わってしまったアイツだからこそ、俺達より遥かに早く踏ん切りがついたのかもしれない。
「現実は……辛くて苦しいな……」
そう呟きながら、レオンは自らの腰に提げられたガンブレードを抜き放つと、青空から降り注ぐ太陽の光に掲げて目を細める。
銀色に輝く鋼がキラキラと輝き、皮肉にもその光景はレオンの心を僅かに躍らせていた。
「ああ……そうか……」
刹那。レオンは自らの心を理解して悲し気な笑みを浮かべる。
掲げたガンブレードを頼りなく振るえる腕で支えたまま、泣き声にも似た震え声でレオンが口を開いた。
「楽し……かったんだな……」
その言葉を口にした途端。レオンは自らの心の内から迷いが消え、覚悟が固まったことを自覚した。
そう。楽しかったのだ。
教室の端で、叶わぬ恋に身を焦がしながら友人と語らうあの世界より、護られていない不安な身の上でも、元の世界に帰るという共通の目標を掲げて、仲間と共に明日を目指す日々の方が。
「……さよなら」
ヒュンッ! と。
悲し気な顔で囁いた後、レオンは宙に掲げた剣を、何かを切り裂くように一度だけ振り下ろし、軽い音を立てさせて腰の鞘へと納めた。
それは、別れの儀式だった。
たった今レオンは、怜緒宗紫ではなく、レオン・ヴァイオットとして生きると決め、かつての自分に別れを告げたのだ。
「俺は友の……仲間の為に生きる。あいつらと馬鹿やって過ごす為なら、戦争でも何でもやってやる……!!」
そう、いつにもなく熱の籠った声で誓いを立てると、レオンは青空に背を向け、蒸気に煙るエルトニアの町の中心部へと歩き去っていったのだった。




