29話 辿り着いた安寧
ファントでの戦いから数週間。
私も次第に新しい生活に慣れてきた。
朝起きて宿を手伝い、後片付けを終えたら詰め所へ出向く。そこで、マグヌス達がまとめておいてくれた雑務や書類仕事を片付け、また夜の宿屋を手伝う。
こんな平和な生活が、今のテミスの日常だった。
「人生とは、どう転ぶかわからんものだ……」
朝の手伝いを終えて詰め所へ向かう道すがら、テミスはのんびりと青空を眺めながら呟いた。
こんなにゆったりとした生活を送った事は、以前の世界を計算に入れても数えるほどしか経験がない。と言っても、そんな幼い頃の経験なんて覚えている筈も無く、故にとてつもなく新鮮な気分で町を歩いているのだった。
「……アトリア…………」
ふと、あちら側で出会った魔族の店主の事を思い出す。
彼女は今もあの店で、受付をしているのだろうか?
それとも、どこかへ姿をくらましてしまったのだろうか。
「そろそろ、動く頃合いなのかも知れないな」
テミスは苦笑いを浮かべながら、自らの服へと視線を落とす。そこにはあの漆黒の甲冑も簡素なぼろ服も無く、シンプルながらも可愛らしい意匠の清潔な服が、温かな陽の光を浴びていた。
我ながら、短期間でよくもここまで平和ボケしたものだと思う。初日に例の甲冑で『通勤』して、爆笑するサキュドと苦笑いを浮かべるマグヌスの洗礼を受けてからと言うもの、日に日に装甲を減らして辿り着いたのがこの格好なのだ。
「しかしまぁ……クククッ」
ふと、ある日の騒動を思い出して、テミスは喉を鳴らした。
あれは、装甲を減らし始めてから何日目だっただろうか。連日突き刺さる部下たちの生暖かい視線に堪りかねた私が、最後に残ったチェストアーマとタセットを外してアクトンだけで出勤すると、あのサキュドが可哀そうなモノでも見るような表情で、自分の私服を一着差し出して寄こしたのだ。
曰く、アクトンはあくまでも鎧の下に着用する物であって、それ単体で着るものでは無いらしい。
「確かに地味だが、防寒性にも優れてて良いと思ったんだがな……」
こちとら、生まれも育ちもこの世界ではないのだ。鎧なんて着た事など無いし、アクトンの他に持っているものと言えば、この世界に来た時に着ていた簡素な服と、店で使っている給仕服しかないのだ。当然の選択だと言えよう。
それからと言うもの、あの甲冑一式は詰め所の執務室で置き物になっている。
「さて……と。それでは今日も、頑張りますかね……」
詰め所の門までたどり着いたテミスは大きく伸びをすると、ゆっくりと建物の中へと消えていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「フムム……参った」
一方。テミスの副官の一人であるマグヌスは、執務室で頭を悩ませていた。
「どうしたのよ、珍しく頭抱えちゃって?」
その悩みっぷりは、普段は雑務など気にも留めないサキュドであっても、見過ごせない程のものらしい。
「ウム……これ、なのだがな……」
「…………?」
一瞬の逡巡を見せた後、観念したかのようにマグヌスが一通の書状をサキュドに手渡した。
「なになに……? 第13独立遊撃軍団の任命に際し、任免式を執り行うため副官と共にヴァルミンツヘイムまで登城されたし? これの何がまずいのよ?」
「いやな……そのぉ……何と言うか……」
「……まどろっこしいわね。ハッキリ言いなさいな」
マグヌスが、彼にしては珍しく言葉を濁すと、サキュドの眉が吊り上がる。
「ウム……テミス様はその……アレだろう?」
「……アレ?」
サキュドは眉をひそめたまま首をかしげると、ふと、何かに気が付いたかのように目を細めた。
彼ほどの男が言葉を濁す太事と、式典という言葉。彼女には一つだけ、大きな心当たりがあった。それはごくごく最近に体験したあの異様な光景で、あの時は腹が壊れるかと思う程爆笑した後、何故かとてもいたたまれなくなったあの事件が。
「……まさか」
「ああ……サキュド、一日でも……否、数刻でも構わない。テミス様が礼式軍装や略式軍装をされている所を見たことがあるか? テミス様と同性であるお前であればもしくは……」
「無いわね」
気まずげに、そして一縷の希望を託すように投げかけられたマグヌスの問いを、サキュドは無慈悲に切り捨てる。その顔にはこれまた彼女にしては珍しく、深い疲労と絶望の色が現れていた。
「私が知っているのは、例の甲冑からどんどんとパーツが外されていく過程、そして今の服装だけだから……アンタと同じじゃない?」
「…………であるか」
二人の深いため息と共に、妙に重苦しい空気が執務室を支配した。
これは、十三軍団の沽券に関わる事だった。魔王軍において軍団長とは、その軍団の顔であり象徴である。部隊は軍団長の直属であり、軍団長の色や気質が強く表れる。例えば、アンドレアル率いる第四軍団が魔王軍屈指の物理攻撃力を誇る軍団であったり、ポルム率いる第二軍団は魔法に長けたものが多い、といった具合だ。
「これは……一大事よ……」
「……何とも……何とも情けないと言うか、可愛らしいと言うか……」
絶句したサキュドの心中を察するように、マグヌスが重々しく頷く。
「アンタそれ……テミス様の前でも言えるのかしら?」
「言えるのならば……こうまで頭を抱えては居まい……」
いつもであれば愉し気にマグヌスをイジるサキュドの声も、今回ばかりは声に艶が無かった。何故なら十三軍団の新たな顔である彼等の上司は、いまだ付き合いの短い彼等であっても、見栄や面子などと言った事柄に無頓着であることがうかがい知れる程なのだ。
しかし幸か不幸か、かの軍団長は人間だ。魔王軍の中では異質の存在である。それは同時に無条件に侮られる事を意味しており、二人は自らの誇りにかけてそれを避けねばならない。
「ねぇ……いっその事、先に私達で用意しておくってのは?」
「……それは許されんだろうな。テミス様は許して下さるだろうが、万が一事が露見した場合、テミス様が余計に侮られかねん」
堪り兼ねたようにサキュドが提案するが、その苦肉の提案にもマグヌスは力なく首を横に振った。
「あ~っ! もう、まどろっこしいわね!! マグヌス!! いっそのことアンタが直……接――」
「冗談ではない! そんな大それたことできるものか! ……む? どうしたのだサキュド。そんな顔をし……て……」
癇癪を起したサキュドの言葉が尻すぼみに消え、その視線はいつの間にかマグヌスの真後ろに固定されていた。不審に思ったマグヌスが問答をしながら振り向くとそこには。
「何が大それたことなのだ? マグヌス」
あっけらかんとした顔で首をかしげる絶望の元凶。可愛らしい町娘の装いをしたテミスが立っていた。
「テッ……テ、テ……テミス様!? もう来られていたのですか?」
「ああ。先程な。で、何か問題か?」
「はっ……いえっ……そのっ……」
テミスはそう問いかけながら、いつものように部屋を横切り、最奥に設えられた自らの机へと向かう。その隙にマグヌスは、救いを求めてサキュドへと視線を送るが、先ほどまで彼の隣で問答をしていたはずの彼女は忽然と姿を消していた。
「なっ……に……? サキュドめっ……!」
「ん? サキュドなら先ほど、珍しく修練場に行くとか言って出ていったが……それで? 大それた事、とは何だ?」
相棒の逃走に絶句するマグヌスへ、無慈悲にもテミスの追撃が襲い掛かった。
「それが……ですね……」
ああ、私もここまでか。と。マグヌスはがっくりと膝をつき、頭を垂れて項垂れると、恐る恐る口を開く。
「不敬を承知で申し上げるのですが……テミス様。しっかりとしたお召し物をご用意されてはいかがでしょうか」
「………………はぁっ?」
頬杖をついた体制からガクリと滑り落ちたテミスの外れた声が、執務室に木霊した。




