310話 絶望の淵
※残虐表現注意です
「えっ……?」
ズブリ。と。
鈍い感覚がテミスの右肩に走り、その予想だにしていなかった感覚にテミスは疑問の声を漏らした。
直後。
「グッ……あああああッッッッ!!!???」
一陣の風が土煙を吹き流していくと同時に、右肩から迸った燃えるような痛みが全身を駆け巡り、テミスは堪らず苦悶の叫びをあげていた。
「……」
シャリンッ……。と。甲冑と擦れる小気味の良い音を立てながら、根元まで埋められたオヴィムの刀が、テミスの肩から無感情な動きで抜き取られる。
同時に。刀と共にあふれ出た血が、だくだくと黒く輝く甲冑を濡らしていく。
「っ……!?!?」
――何故っ!? どうしてっ!?
テミスの頭の中を、無数の疑問符が支配した。
オヴィムはつい先ほど私の斬撃に弾き飛ばされ、反撃どころか立ち上がる事さえままならない筈だっ!
だからこそ。私はこの好機に、奴の剛剣が苦手とする超近接戦闘へと持ち込むべく、間髪入れずに飛び込んだというのに……。
何故……逆に私が血を流しているのだ……?
あまりに想定外すぎる現実に、テミスの脳は混乱を極めていた。
「っ――!!!」
だが幸運にも、テミスの脳はその全ての意識が統制を失っていた訳では無かった。
それは……。思考よりも本能。考察よりも直感の領域。身の毛もよだつほどの凄まじい悪寒が、目前に迫った危険を報せるべく、テミスの背を駆け巡った。
……逃げなくてはッ!!
灼け付いた本能が鳴らす警鐘に従い、テミスはオヴィムの放つ弐撃目の迎撃から逃れるべく、その脚に渾身の力を籠めて後ろへと跳び下がった。
だがこの一連の行動こそが、この戦いの中でテミスが犯した最も大きな間違いだった。
「ぐあああああっっっ!!!!」
ゴィンッ!! と。
凄まじい衝撃と共に、テミスの左肩に耐え難い痛みが襲い掛かった。
テミスは苦痛の叫びをあげながら、再び驚愕と混乱に突き落とされた頭で辛うじて自分の左肩へ視線を向ける。
そこには、甲冑の僅かな継ぎ目を断ち割って、深々と我が身へと食い込んでいるオヴィムの刀があった。
「…………」
「ウッ……ぐぅっ……」
しかし、テミスの苦痛など歯牙にもかけず、その右肩を貫いたときと同じように無機質な動きで、オヴィムの刀が斬り込まれた肩口から抜き取られる。
だが初撃と異なったのは、即座に次の攻撃が加えられない事だった。
「っ……!!!」
大間抜けかッ!! 私はッ!!!
その刹那の間にテミスの頭は冷静を取り戻し、理に反する自らの行動を怒鳴り付けていた。
テミスがオヴィムの懐へ飛び込んだのは、彼が苦手とする超近接戦闘を挑むためだった。
ならば、その身を吊ら浮かれる程に肉薄した状況から、後ろへ跳んで躱す事は、わざわざオヴィムの得意とする射程へ飛び込んでいくことを意味していた。
普段のテミスであれば、このような愚を犯す事は無かっただろう。
だが、想像すらしていない一撃を受け、思考が暴走したこの時だけは、何も考えずに本能へ従ってしまったのだ。
その結果がこのザマだ。
右腕は辛うじて僅かに動きはするものの、左腕は鎖骨まで断たれたのかピクリとも動かない。オヴィム程の猛者を相手に、これほどの手傷を負うのは致命傷に等しかった。
だが……その直後。
テミスは自らの耳を疑いたくなる程、絶望的な宣告を告げられる事になる。
「……腱を切り裂いても即座に回復すると言うのなら、その腕を落とすまで」
「はっ……?」
テミスにとって、一度戦い手酷い敗北を喫して尚、即座に決闘へと赴いたのが、完全に裏目になっていた。
間近に立ったオヴィムは感情の無い声でそう告げると、高々と振り上げた刀をテミスの左肩を目掛けて無慈悲に振り下ろした。
「ぎゃあああアアアアァァッッッ!!!!!」
その斬撃の直撃を受けてテミスが上げたのは、心の底からの悲鳴だった。
オヴィムが今行っているのは、恐ろしく固い木を断ち割ろうとしている様なものだ。幾ら継ぎ目を裂かれたとはいえ、テミスの身を護る甲冑は最高硬度を誇るブラックアダマンタイト製。そう簡単に断ち切れるほど軟な素材ではないのだ。
ならば、何が起きるのか。
切り裂かれた鎧はオヴィムの刀を誘うレールとなり、放たれた斬撃は先程付けられた傷へ寸分違わずに撃ち込まれる。けれど、その先を守護する最強の守りは簡単に刀の侵入を赦さず、オヴィムの剛剣は凄まじい衝撃を残して、僅かに傷を切り進むのだ。
「…………」
「っ……!!!!!」
三度。無機質な動きでオヴィムの刀が振り上げられた。
その光景はまるで、処刑台に寝転がって見上げる、今にも自分の首へと落ちてこようとしているギロチンの刃のようだった。
――クソッ!! これ以上食らう訳にはいかんっ!! このままでは、本当に腕を落とされるッ!!
だが、そんな世の絶望を煮詰めて濃縮したかのような状況でも、テミスの心が折れ砕ける事は無かった。テミスの脳は打開策を求めて高速で回転し、その瞳は決してあきらめる事無くギラギラと強い光を放っていた。
そして。
一片の淀みすら無い動きで、オヴィムの刀がテミスの左肩へと振り下ろされる。
しかし、その刃がテミスの傷へと届く事は無かった。
「な……にっ……!?」
ギャリィンッ!! と。
高らかに鳴り響いた金属音と共に、オヴィムが驚愕の声を漏らしていた。
その甲冑の陰で見開かれた目が捉えたもの……それは。
腱も骨も断たれ、腕を動かす事すら叶わない筈のテミスが、漆黒の大剣を力強く握り締め、オヴィムの振り下ろした刃を、真正面から受け止めている姿だった。




