284話 神域の守護者
数時間後。テミスは独り、トラキアの隣町であるデュオニーズへ向けて歩を進めていた。その首元には、霊魔銀で拵えられた小さなプレートが提げられていた。
「フン……」
テミスは不機嫌に鼻を鳴らすと、爽やかな音と共に頭上を過ぎ去っていくつむじ風を睨み付けた。
実に気に食わん。結局のところ、全て連中の思惑通りだ。しかもその利害が、私の目的とピッタリ一致しているのが余計に腹立たしい。
あの後。受付嬢とルードの二人から滾々と説得を受け続けたテミスは、彼等の用意した餌に飛びつく形で特別昇級を受諾する事を決めた。
テミスが了承すると、まるで定められていたかのように話は滞りなく進み、Sランク冒険者の証である、貴重な金属であるはずの霊魔銀を用いたプレートまで即座に出てきたのだ。
「また……面倒な役職を背負わされたものだ……」
そうぼやきながら、テミスは自らの首にかけたプレートを弄ぶと、宙を見上げて深いため息を吐く。
転生者に軍団長、更には不名誉極まるあざ名の数々に加え、今回はSランク冒険者などという肩書まで背負ってしまった。この調子で増えていけばいずれ、百の顔を持つ女……なんて下らん寓話に祭り上げられかねん。
「……って、何を考えてるんだ私は……」
テミスはふと我に返ると、頭を振って茹で上がりそうになっていた思考の海から現実へと帰還する。
今はそんな事を思考するよりも、目の前の現実を何とかすべきなのだ。
トラキアの冒険者ギルドで、テミスがSランクへ昇級する対価として受注した依頼は、ある魔族の討伐依頼だった。
曰く。その魔族は、何故かとある屋敷の前から動かない無害な奴らしい。しかし、ひとたびその魔族のテリトリーへと侵入した瞬間。放たれた猛虎の様に侵入者へ襲い掛り、いかな実力者でも瞬く間に打ち倒してしまうそうだ。
しかも、不思議な事に冒険者生命を絶たれるほどの深手を負う者は居ても、その魔族に立ち向かって殺された者は一人も居ないという。故に、近付かなければ危険は無いという事で、依頼を出してはいるもののそれは形式的な物らしい。
本来ならば、無害を貫いている魔族に刃を向ける理由など欠片も見当たらないのだが、テミスはその魔族にいたく興味を惹かれた。
傷は負えど死ぬ事は無い。しかも、その相手は強力無比な実力を持つ剣士だと言う。ならば、そのような強者と切り結んだ剣戟の先には、いったいどれほどの景色が待っているのだろうか。
「っ……!! これが……武者震いかっ……!!」
今だまみえぬ強敵を想像したテミスは、自らの背を這い上がって来るゾクゾクとした感覚にぶるりと身を震わせた。
しかし、その顔には恐怖など微塵も浮かんでおらず、むしろ好機と狂争を存分に孕んだ、壮絶な笑みで溢れていた。
執務で錆び付いた腕の錆落としだけではない。上手くすれば、ほぼノーリスクで様々な技が試せる上、素人に毛が生えた程度だった私の剣技も、遂に上達の時が来たのかもしれない……ッ!!
「ククッ……フフフッ……待っていろよ? お前の強さ……存分に私の強さの糧としてくれるッ!!」
テミスはそう独り言を呟いた後、高笑いと共に弾むように歩を進めていった。
既にその胸中には、ルード達の掌の上で踊らされている怒りなど消え去っており、そのキラキラと輝く目は、まるで新しいオモチャを買い与えられた子供のようにきらびやかな光に溢れていた。
そんな弾む足取りで、テミスはルード達に教えられた道を突き進んでいく。
荒野を越え、川を渡り、小高い丘の上にそびえる林の中へと足を踏み入れた。
彼等の話によれば、この小さな林はその魔族が守護する屋敷を取り囲むように生えているらしく、この小さな林を少し進んでいけば、目的の場所に辿り着ける筈なのだが……。
「っ……!」
ぞわり……。と。木々に覆われていたテミスの視界が開けた瞬間の事だった。足の先から頭のてっぺんまで貫くように、独特な感触がテミスの身体を駆け巡り、その玉のような肌が一気に粟立った。
これは、紛れもなく強者と相対した時のあの感覚だ。それも、その濃度は恐ろしく濃い。
目の前の光景は、ただ大きな洋館の廃墟が静かに佇むだけの長閑な光景。
しかし、その場を覆っている静謐な雰囲気は、まるで深海のように思い重圧を帯びており、神秘的とも呼べる光景も相まって、テミスはルード達に聞かされていたこの地の名を呑み下した。
「これは確かに……神域ッッ……!!」
ごくりと生唾を呑み込んだテミスが、その目を爛々と光らせて一歩。林が開けた広場へと足を踏み入れた時だった。
「旅人か? ならば、疾く去ると良い」
「っ……!!!!」
野太いくぐもった男の声が、どこからともなく聞こえてきたのだ。
瞬間。テミスは全神経を集中して周囲へと気を配る。
間違いなく、どこかから見られている。そして、こうして話かけられた以上。こちらからもその姿を見止める事はできる筈ッ……!
「何処を見ている? 正面だ。いたいけな少女よ。おっと……だが、それ以上近付くな。あと一歩でも踏み込めば、私はお前を敵と見做す」
「っぁ……!!」
もぞり。と。
屋敷の外壁の一部が動いたかと思うと、それはゆっくりとその姿を現した。
否。テミスの目が、その男をようやくヒトとして認識したのだ。彼はずっと、テミスの正面……屋敷の傍らに佇んでいた。だが、その姿は気配の一つに至るまでこの場に同化し、テミスの目を以てしても、あの男が自らの存在を伝えるその瞬間まで認知する事ができなかった。
「少女よ。ここは時に忘れ去られた陵墓……誇り高く、心優しい騎士が眠る墓標なのだ。近くの町までならば、丁度お前の真後ろに向かって真っ直ぐ歩いて行けば、半日もあれば辿り着く……。さぁ、疾くこの場を去ると良い」
古ぼけた甲冑を身に着けた男はテミスの後ろを指差すと、穏やかな声でそう語り掛けた。その優しげな声はまるで、老人が孫へと言い聞かせるような雰囲気を孕んでおり、流石のテミスも自らの燃え盛る戦意が鎮火していくのを感じ取った。
だが、ここまで来て退く訳にはいくまい。
目の前には、途方もなく強靭な気配を発する武人が一人。いかに見てくれは小娘といえど、その前に立つ私もまた、武を以て正道を貫かんとする者なのだ。
「すまないが……私もこの場所に用があって来たのだ」
「この場所に……? お前のような、可憐な乙女が……か?」
「……この身に染み付いた拭い得ぬ血潮の香り。お前ほどの者が気付かんとは言わさんぞ?」
まるで忠告するかのように、静かに問いを繰り返した男へ、テミスは狂笑に顔を歪めて応えながら、腰に提げた剣を抜き放って構えを取る。
「……やれやれ。仕方があるまい」
男が深い溜息を漏らし、その腰に提げた朽ち果てたかのようにボロボロの棒へと手を添える。
「っ~~!!!!」
刹那。暴風のように荒れ狂う気迫が、テミスの身へと押し寄せたのだった。




