280話 決死の一撃
「……終わったな」
テミスの身体へ、蜘蛛の糸が眉上にまとわりついて行くのを眺めながら、ルードはぽつりと呟いた。
あの驚異的な反射速度と、魔獣と正面から打ち合う事のできる技量は見上げたものだが、今回は新米が故の経験の浅さが勝負の決め手となった。
相手を知性無き獣であると見下さず、常に格上の相手……捕食者と被捕食者である事実を念頭に置いて戦う事。あとは、これから経験を積んでいけば、嫌でも魔獣のクセや成熟度を見抜く事ができるようになるだろう。
「へへっ……コイツァ……化けるぜ……?」
ルードは今もなお厳重に拘束を増やされ続けているテミスに目を向けると、楽しそうに笑みを浮かべて言葉を零す。
末恐ろしい後輩冒険者も居たものだ。ルードはゾクゾクと背筋を焦がす感覚に身を委ねながら、腰に提げた太刀の鯉口を切った。
あの嬢ちゃんは間違いなく、この俺と同じ高みまで上り詰めてくる……。首元に提げた霊魔銀のプレートに意識を向けると、ルードはその歓喜にも似た感情を込めて前傾し、抜刀体勢を取る。
とてもいい気分だった。
有能な後輩の為であれば、自らの奥義の一つを見せてやってもいいと思う程に。
奮戦の褒美として、見せてやろう。かつて、雷竜をその咆哮ごと切り裂いた最速の一撃……雷切を。
準備は万端。雷切であれば、捕食体勢に入ったダンシングスパイダーを切り裂くなど容易い事だ。あとは、あの意地っ張りが助けを呼ぶのを待つだけだった。
――しかし。
「っ……!? 馬鹿が……っ! 死ぬ気かッ……!?」
太刀を抜き放つ直前の姿勢を保ったまま、ルードは眼前の光景に思わず驚愕の言葉を漏らした。
ルードが見据えたその先では、大きな繭のように全身を拘束されたテミスにダンシングスパイダーがにじり寄り、今まさに捕食せんと、見せつけるかのようにその大きな顎を開いた所だった。
だと言うのに。テミスは未だ悲鳴の一つすら上げず、その目に怒りを込めて繭と化した糸の中で脱出せんともがいているのだ。
「……あの強情張りが。帰ったら説教だ」
テミスの意地を確認すると、ルードは凶悪にその頬を歪めて、さらに深く体勢を落とす。
あの皮肉屋の事だ。短すぎる付き合いだが、少しばかりは理解できた。どうせ俺が付いて来た時点で、見捨てないとタカをくくっているのだろう。
事実。その通りなのだが、ならば存分に捕食される恐怖を味合わせてから、本当に食われる寸前で助け出すまでだ。
ルードはそう心を決めると、深く腰を落として太刀を構え、鋭い視線でテミスを見据えながら機を待った。
だがその一方で。
テミスはルードの援護など最初から当てにはしていなかった。
「ッ……クソッ……!!」
ガチガチに拘束された繭の中で身を捩り、悪態を零す。
その眼前に迫った巨蜘蛛の気色悪い顔が、何処か勝ち誇った笑みを浮かべているように見えるのは気のせいだろうか。
「チィッ……寄るな!」
にじり寄るダンシングスパイダーに怒りを叩き付けながら、テミスは少しでも距離を取るべく唯一自由が利く脚を踏ん張って糸を手繰り寄せる力に対抗する。
だが、そんな涙ぐましい抵抗も空しく、テミスを封じ込めた繭はズルズルと引きずられてダンシングスパイダーの元へと引き寄せられていった。
「ッ…………!! ここまで……かッ……!!」
間近まで引き寄せられ、大量の唾液をボタボタと滴らせた口が開閉されるのを視界に収めた途端。テミスの背筋に怖気が駆け巡った。
こちらは文字通り手も足も出ない。剣は絡め取られ、後はこの醜い魔獣に齧られるのを待つばかりの身だ。
「クソッ!! クソクソクソッ……!! 何かッ……何か手はッ……!!」
しかし、絶体絶命の状況にも関わらず、テミスは強情に勝機を探し回っていた。
敵は一体だ。それに、あの速度を生かして食らい付いて来ない辺り、コイツにとって私は既に獲物ではなく食料なのだろう。その明らかな慢心さえ突く事ができれば……。
テミスは自分が意地になっている事を自覚しながら、最後の瞬間まで勝ちの目を探り続けた。
ここで魔法を使ってこの巨蜘蛛を殺せば、冒険者としてのテミスは死ぬ。
仮初の自分ではあるが、このような魔獣に殺される事にテミスは強い拒絶感を覚えていた。
だが、現実は非情だった。
明確な脱出の手段は浮かばず、勝ち誇るように開かれた顎がテミスの腹辺りで、まるで照準を定めたかのようにピタリと動きを止める。
「クッ……ソッ……!!!!!」
もう一刻の猶予も無い。
そう確信したテミスは、体内の魔力を練り上げ、拘束を解くべく魔法を発動させる。
「ッ……カ野郎ォォォォ!!!!」
同時に。遥か背後から雷鳴のような咆哮が響き渡り、岩を砕く音が鳴り渡った。
それは、痺れを切らしたルードがテミスを救い出すべく踏み切った音であり、テミスの発動した魔法が顕現するのと同時だった。
「アアアアアアアアアァァァァッッッ!!!!」
ルードの剣閃が閃く寸前。
憎悪と恥辱に塗れた咆哮と共に、テミスを捕らえていた繭の前方が小さく爆発する。
その魔法は、テミスの最後の意地だった。
魔法を使わされた時点でテミスの敗北は動かない。しかし、魔法ではなく剣で魔獣をトドメを刺す事で、軍団長としてではなく……あくまでも冒険者として魔獣を倒す。
同じ死が待っているにしても、冒険者としての自分へのせめてもの手向けとして……。自らを殺した相手を、殺された自分として殺す事を選択したのだ。
爆発の直後。拘束から解放されたテミスの剣が閃き、今まさにその腹を食い破り、貪り尽くさんと涎を滴らせていた巨蜘蛛の口へ深々と突き立てられた。
刹那。巨蜘蛛の全身にビクリと震えが走り、時間が凍り付く。
「クソ蜘蛛が……お前の勝ちだ……」
根元まで深々と剣を突き刺したテミスは、全身を硬直させたダンシングスパイダーにそう囁くと、一気に剣を引き抜いて体を離した。
その数瞬後。
ズズン……。と。巨蜘蛛の身体が崩れ落ち、食い入るようにその光景を眺めていたルードが我に返る。
「お前ぇ……」
腰の太刀を中途半端に抜刀した状態。その足元には、二本の焦げた線が轍のように残っている。
それは、テミスの最後の反撃を察知したルードが、無理矢理に雷切を止めた証拠だった。
「っ…………」
ジャリッ……。と。
呼びかけに応じるように、テミスは無言でルードの方へと向き直る。
だがその顔に勝利の喜びなど微塵も無く、苦虫を噛みつぶしたように苦々しい表情が溢れていたのだった。
2020/11/23 誤字修正しました




