278話 テミスの秘策
「さてと……アレがお目当てのダンシングスパイダーだ」
岩場を歩く事数十分。ピタリと足を止めたルードが、先を指差しながら声を潜めて口を開いた。
その指が示した先。そこには、三メートルは優に越す大蜘蛛が、その巨体をリズミカルに上下させながら立っていた。
「っ……大きいな……」
「クク……ビビったのか?」
「馬鹿を言うな……ああいった類の魔獣は、生理的に受け付けんだけだ」
「……気持ちわりぃのは確かだな」
ぽつりと感想を漏らしたテミスにルードが茶々を入れ、互いに小声で言葉を交わす。
だが、巨大な蜘蛛というのは、目の当たりにするとこうも気味の悪いものなのか……。ルードの軽口に応じながら、テミスはそう心の中で付け加える。
正直言って、近付くのも遠慮したいレベルの嫌悪感だ。身体は余す所無く縮れた人毛のような毛で覆われ、ギョロギョロと動く複眼と常に何かを食んでいるかのように動いている口には、鋭い鎌のような牙までついている。
そんな、根源的嫌悪を想起する魔獣など、一人であったならば間違いなく、遠距離からの絨毯爆撃で駆逐していただろう。
「何がダンシングスパイダーだ……踊りを踊るというのならば、見た目には気を使え……」
テミスは理不尽な怒りを悪態に変えて標的の魔獣に呟くと、苦笑いを浮かべたルードがその肩を軽く叩いた。
「俺はここからは見物だ。奴さん、見たところ反芻している最中だ……。ダンシングスパイダーは空腹を紛らわす時に反芻する。このままだとまた被害が出るな」
「ならば、ここで始末してしまえば問題ないのだろう?」
「……若しくは、お前さんが餌になればまた数日は安全だな」
「抜かせ……」
ルードの煽り文句にそう返すと、テミスは不敵な笑みを湛えて剣を抜いて歩き出す。そして、体を揺らしながら反芻を続けるダンシングスパイダーへ、その背後から堂々と歩み寄っていった。
「……大した度胸だぜ、全くよ」
その背を見送りながら、ルードはため息と共に腰の太刀に手をかけた。
恐らく、勝負は一瞬でつく。そう、ルードは確信していた。
背後からの一撃が決まった所で、テミスの持つロングソードでは、一撃で仕留めるのは不可能だ。運良くその一撃で足の一本でも落とせれば、いくらか速度は落とせるだろうが、それでも中距離から獲物を捕らえんと放たれる粘性の糸を躱しながら戦うのは不可能だ。
「持って一分……かね……」
強気なテミスの性格を鑑みて、ルードは冷静に判断を下した。
そもそも、ルードは最初からテミスを死なせる気など毛頭無い。彼女が見抜いた通り、チームワークを覚えるための機会としてこの場を設けただけだ。身に染みて理解すればそれで良し、最後まで助けを請わずに意地を通したとしても、その伸びきった自信をへし折る事くらいはできるだろう。
「さて……と。この辺りならば問題ないか……」
テミスはルードから少し離れた位置まで歩くと、歩調を緩めて静かに呟いた。
この位置ならばルードに聞き取られる事無く、かつダンシングスパイダーに気取られる事無く詠唱をする事ができる。
逆に言うのならば、誰にも気づかれる事無く仕込みを行うのは、この瞬間しか無いのだ。
そう確信すると、テミスは剣を体の正面に掲げ、小声で詠唱を始めた。
「我が求めるは疾風迅雷。疾風の如き速さと、雷鳴の如き迅さを、この身に貸し与え給えッ!」
つつがなく詠唱を終えた瞬間。テミスは自らの身体がふわりと軽くなった事を自覚した。そして、能力を以て再現した魔法が正常に起動した事に頬を歪める。
この魔法を使っていた魔術師は、すぐにこの上位互換の魔法である剛力雷迅という魔法を習得し、疾風迅雷を使う事は無くなってしまうのだが、今のテミスにとってはこちらの方が都合がよかった。
何故なら、疾風迅雷は文字通り自分の速度のみを強化する術式。対して、剛力雷迅は速さと膂力を強化する術式なのだ。故に、疾風迅雷に比べて加速度は低く、肉体への負荷も大きい。もともと人間離れした膂力を付与されているテミスにとって、凄まじい速さを武器とするらしいダンシングスパイダーを相手にするのならば、この魔法が最適解だった。
「っ……!? 何やってんだ……? アイツ……」
「まずは……一撃」
強化魔法の付与を終えたテミスは、その場で獣のように身を屈めると、その脚に前例の力を集中し始める。
だが、獲物であるダンシングスパイダーとの距離はまだ三十メートル以上。通常の剣の間合いからは大きく外れており、その光景を眺めていたルードが息を呑むのも不思議な事では無かった。
しかし、次の瞬間。
「セアッ!!!」
烈破の気合と共にテミスの姿が掻き消え、ダンシングスパイダーの脚が一本。緑色の体液をまき散らしながら宙を舞った。
「ギェアアァァァァッァァッッッ!!!」
数瞬遅れてダンシングスパイダーが怒りの咆哮を上げ、地面の上を滑るように後退してテミスへと向き直る。その複眼は言葉を介さなくてもわかる程の憤怒に溢れており、かつて狩った獲物を咀嚼していた口は既にテミスへと狙いを変えていた。
「無粋な見物人も居るんでな……悪いが、さっさと仕留めさせて貰う」
飛び掛かり、切り下した斬撃の残心を解きながら、テミスは言葉を介さぬ大蜘蛛へと語り掛ける。
同時に、ダンシングスパイダーの姿が歪み、甲高い風切り音がテミスの耳に届く。
その音を捉えたテミスが、薄ら笑いを浮かべて半歩後ろに退がった直後。その足元の岩に巨大なダンシングスパイダーの触腕が突き立った。
「おやおや、足を斬り飛ばされて怒り心頭らしい。……虫とは言えど魔獣。怒る程度の知能はあるのか?」
眼前を通り過ぎ、岩を穿った触腕をせせら笑いながらテミスは尚も通じぬ言葉で獲物を挑発する。
刹那。まるでテミスの言葉を理解したかのように、ダンシングスパイダーは残ったもう片方の触腕を振り上げて咆哮を上げたのだった。
2020/11/23 誤字修正しました




