275話 旅立ちの日に
「では、後の事は任せるぞ。マグヌス、サキュド」
次の日。テミスは冒険者の格好をしてファントの門の前に立っていた。
その前には、テミスを見送りに来たマグヌスとサキュド。そして、アリーシャの姿があった。
「本当に……お一人で行かれるのですか……? 人間領内はお世辞にも住み良いと言える環境では無いはず。なにも……」
「言うなマグヌス。冒険者たる者、劣悪な環境であろうと宿に居を構えんのは不自然だろう?」
「それはっ……そう……ですが……っ!」
並べ立てられたテミスの正論を前に、マグヌスが口ごもる。
事実。旅の冒険者として渡り歩いているにもかかわらず、決して宿に泊まらず野宿を続ける者など、無条件に怪しまれる事は無くとも、目立つことに間違いは無い。
「フフ……そう気を急くなマグヌス。ウチのあの美味い食事に舌鼓を打てなくなるのは無念極まりないが、酷い住環境に押し込められた所で死にはせん」
テミスはそう告げてニンマリと唇を歪めると、マグヌスの瞳を覗き込みながら言葉を続けた。
「それとも何か? 私ともあろう者が、寝込みを襲われた程度でやられるとでも?」
「いっ……いえ! そのような事は決してっ!!」
その言葉にマグヌスは背を跳ねさせると、顔を青くして激しく首を横に振って否定した。……何も、そこまで必死になる事はあるまいに。
「ウフフッ……テミス様の寝込みを襲うなんて、命知らずにも程がありますものねぇ? それこそ、寝ているドラゴンの巣から卵を盗み出す方が安全よ」
「……? そうかな? 寝てる時のテミスって割とスキだらけだと思うけど……」
「それはきっと、貴女の特権なのでしょうね……」
意味深な笑みでテミスをからかうサキュドに言葉を返す前に、アリーシャが不思議そうな顔で首を傾げて疑問を零す。すると、突如としてサキュドは脱力すると、自らの立ち位置を理解していない彼女を、信じられないとでもいうような目で見つめて言葉を投げる。
「私らが同じことをしたらどうなるか……考えたくも無いわ……」
「ククッ……案外、床を共にできるかもしれんぞ? サキュド」
「ご冗談を。私は寝床にはこだわりがありますので」
意味深に微笑んだテミスがそう告げると、サキュドもまた含みのある笑みを浮かべてそれを躱す。まあ、こんなものは皮肉と言葉遊びの応酬でしかないのだが、サキュドとこういったやり取りを交わす事ができるようになったのも、あの時からだろう。
「まぁ、そんな事よりも……だ」
一息ついた後、声色を変えたテミスはそう前置きをすると、マグヌスとサキュドを見つめて口を開いた。
「私がこの町を長く空けるのは、ロンヴァルディアへの潜入以来だ」
「っ……!」
「はっ……!」
その声を聞いて、話が本題に入った事を察したのか、サキュドとマグヌスは背筋を伸ばしてテミスの声に傾注する。そしてその内容は二人にとって、耳が痛い話であろうと直感していた。
「以前は不運にも第三勢力の襲撃を受け、フリーディアの手を借りねば、私が戻る前にこの町が陥落している可能性とてあっただろう」
二人が予測していたように、厳しい言葉を以てテミスは注意を喚起し、言葉を重ねる。だがテミスとて、自らの不在が致命的な弱点に直結するような状態を放置などしていなかった。
自警団の増員に加え、防衛設備の強化。果てには、兵たちの士気を落とさずに防衛力を上げるため、一度組み上げた防衛ローテーションを組み直したりもした。
それでも尚、この町の防衛は完全とは程遠い。事実として、テミスが気が付かなければあの少年のテロ行為を防ぐことはできなかっただろうし、再びライゼルやサージルのような、突如台頭した第三勢力による襲撃が無いとも限らない。
だがそれでも、現状打てる最善手は施してある。あとはそれを、コイツ等が上手く使いこなせるかどうかだけなのだ。
「…………よもやお前達が、同じ轍を二度踏むような者では無いと私は信じているが……」
ギラリ。と。テミスの目が鋭く光ると、マグヌス達は生唾を飲みこんで伸ばし切った背筋に力を籠める。上官が消える事で、多少は緩むだろう。だが、そこを律し、一丸となって成し遂げた時、彼等はまた一段と強く成長できるはずだ。
だが、そんなテミスの思いなど露ほども知らない二人の胸中に、もうミスは許されない……。そんな強大なプレッシャーがのしかかりかけていた。しかし、二人が覚悟を固める直前。突如としてテミスが破顔して、柔らかな笑みを浮かべて見せた。
「まぁ、何だ。私は、お前達を信じて留守を任せるという事だ。そう気負わずに、最善を尽くしてくれればいい」
「テミ……ス……様っ……?」
だが、信頼の意を込めて放ったテミスの笑顔は、皮肉にもそれを向けられた二人には、怒りを通り越した最後通告にしか映っていなかった。
二人は背筋が急速に粟立つ感覚と共に、すさまじい量の冷や汗が噴き出てくる事を自覚する。そして水面下で、二人は互いの意識が同調するかのように、同じことを考えている事が見て通れた。
――テミス様の事だ。例え、失敗したとしても、我々にその怒りをぶつける事はあるまい。だが、この信頼を失えば私達は……。
主と仰ぐ者から受ける失望。テミスには、おおよそ理解できぬであろう恐怖が、重圧となって二人に重くのしかかっていた。
「はぁ……もぅ、テミスったら。そんなだから、皆に誤解されてるのよ?」
「……ん?」
その重圧の中へと割って入ったのは、傍らから見かねたように進み出たアリーシャだった。
アリーシャは手に持った包みをテミスへ差し出しながら視線を合わせると、目線を合わせて言葉を続ける。
「心配なのはわかるけど、テミスがこういう時にそういう言い方すると、失敗は許さない……みたいに聞こえるよ?」
「何っ……? いや、まさかそんな事はっ……!」
「あ・る・の! 傍で見てた私が言うんだから間違いないです! 軍隊の事とかよく知らないけど、テミスとマグヌスさんやサキュドさんなら、お母さんがお使いを頼むときみたいに、ただ任せたよっ! て、言えばいいと思うよ?」
「……フッ」
アリーシャの手から包みを受けとりながら、テミスはその言葉に微笑みを浮かべた。
まさか、町の防衛とマーサさんのお使いを同列に並べるとは……。アリーシャらしい発想といえば間違いでは無いし、確かにそこに込められた信頼の濃度でいえばその二つに変わりは無いのだろう。
「……弁当。ありがとう。アリーシャ。マーサさんにも、よろしく」
「うんっ! いってらっしゃい! テミス。気を付けてね!」
微笑みを浮かべたまま、テミスはアリーシャに礼を述べると、その柔らかな視線を直立する二人へと移動させる。
その視線の先では、未だに緊張に脚を震わせる二人が、固い表情でテミスの言葉を待っていた。
――確かにこれでは、アリーシャの言う通りらしいな。少しばかり考え過ぎたらしい。
テミスは内心で苦笑いを零すと、おもむろに後頭部を掻いてから口を開く。
「色々と言ったが、全て忘れろ。お前達の様子を視る限り、どうやら私も、指揮官としてはまだ未熟らしい」
「…………」
緊張の視線を一身に受けながら、テミスは三人に背を向けると肩越しに振り返って屈託のない笑顔を向けて言葉を続けた。
「行ってくる……後は、頼んだ」
「っ~~~!! ハッ!!! お任せください!」
「っ…………! ええッ! 安心してください!」
一言だけ言い残して歩き出したその背を、副官たちの凛々しい返事が見送ったのだった。




