272話 理想の英雄
「ククッ……」
バニサスの懇願を聞いて、テミスは自らの頬が自然と吊り上がるのを自覚した。
一体、この男は何を勘違いしているのだろうか。
町を守り、敵を挫く。この二つの希望を等しく叶えるからこそ、この命知らずの少年は始末するべきなのだ。
ならば、多少偽悪的でも構わないだろう。このバニサスという優しい衛兵の心が満ちるように、そっと優しく言い訳を用意してやればいい。
「馬鹿を言うな。私はな、愉しいんだ」
「楽……しい……?」
「そうとも。弱者を虐げて笑う連中が、一転して絶望するその姿が! 狩る側から狩られる側へと堕ちたあの瞬間の絶望が……堪らなく愛おしい!」
テミスはそう心を決めると、大仰な身振り手振りと共にバニサスへと語り掛ける。
そもそも、この少年は侵略者。ファントの安寧を脅かそうとした悪人なのだ。見た目の幼さに情が湧くのは理解できるが、政治と感情は切り離さなければならない。
「なら……なおさら、その子供を殺させる訳にはいかねぇ」
「なに……?」
しかし、テミスの思惑に反して、バニサスはその瞳に強い意思を宿して言葉を放つ。同時に、少年をその背に庇うようにテミスと相対すると、睨み付けるように目を合わせて言葉を続ける。
「テミスちゃん。コイツの事を殺したらアンタ……死ぬ程後悔するぜ?」
「ハッ……あり得ん。そいつは敵だ。愚かにも、ファントの安寧を揺るがそうとした大罪人だ」
「あぁ……そうかもな。でも……これは俺の勘だが、コイツは初めから笑ってなんかいなかったはずだぜ? 今この場で、弱いヤツをいたぶって笑ってんのはアンタだよ」
「――っ!!?」
刹那。バニサスの言葉にテミスは、巨大なハンマーで頭蓋を殴り抜かれたかのような衝撃を覚えた。
確かに、私はこの少年の笑顔を一度たりとも見た事は無い。知っているのは、思い詰めたように沈んだ顔か、恐怖に歪んだ顔だけだ。
「だ……がッ……」
ぎしり。と。
テミスは全力を込めて歯を食い縛ると、ぐらりと揺らぎそうになる身体を支える。
揺らいではいけない。ここで揺らげば必ず付け込まれ、更なる被害を生み出すだろう。その果てにあるのは……。
「ッ……!!! 下がれバニサス。私にはこの町を護る義務がある」
綻びかけた心を奮い立たせ、テミスはバニサスを押しのけようと力を込めた。
そうだ。私は軍団長。敵を殲滅するのに理由など必要ない。町の平和を脅かした者を狩る。戦う力の無い町人たちを護るのは、間違いなく正義なのだから。
しかし、いくら力を込めようとも、バニサスがテミスの前から動く事は無かった。
その足は彼の強い意思を体現したかのように地面に突き立ち、押せども引けども、テミスはただ腹の傷が痛むだけで状況が変わる事は無かった。
「俺達を理由にすんじゃねぇよ。アンタの趣味にゃ共感できるし、ある程度理解もしてるつもりだ。正直、カズトの奴に容赦をしなかったり、町を滅茶苦茶にした兵連中をスッパリ殺ってくれた時にゃ、少しばかり心が晴れたモンだ。……だからこそ、コイツは対象外だって言ってんだよ」
「……? 対……象外?」
バニサスが言い切ると、テミスは何を言っているのか解らないとでも言うかのように首を傾げ、目を丸くした。
カズトもあの兵共も、そしてこの少年も同じではないか。
ファントの平和を脅かし、人々から平穏を奪い去ろうとした悪だ。
そう結論付けると、テミスはジクジクと痛みを増す腹の傷を庇いながら、力付くでバニサスを押しのけた。
これ以上バニサスに付き合ってはいけない。テミスの胸の中に、冷たい自分の声が反響する。
選択を間違えるな。経験しているはずだ。たった一つな間違いで、お前は全てを失った事を。……と。
「止せ! ソイツはまだ、誰も殺しちゃいねぇ!!! カズト達と同じになるつもりかッ!?」
地面に蹲って泣きじゃくる少年にテミスがゆらゆらと近付いた瞬間。薙ぎ倒されるように押しのけられたバニサスの叫び声が響き渡った。途端に、歩み続けていたテミスの足がピタリと止まり、ゆっくりとバニサスの方へと顔を向ける。
「…………私……が……?」
その瞳は一切の感情を遮断したかのように昏く沈み切っており、まるで樹木に空いた空洞のように空虚な色を浮かべていた。
……結局。ここでもそうなのか。
バニサスの言葉に足を止めると、テミスは自らの胸の中から何かが抜け落ちていくのを感じていた。
正義を貫くというのは、綺麗事だけではない。
虐げられている誰かを護る為に、更生の可能性がある犯罪者を殺す事だってある。
要は、選ぶ者なのだ。助けを叫ぶ者と、その平穏を侵略せんとする者。この二者を天秤にかけ、片方を選び取る。
故に。傍らから見ればそれは、ひどく残虐な行為にも思え、例え守られている者が見ても、非難したくなるほどなのかもしれない。
それでも構わない。
例えファントの住人全員に非難されようとも、私はこのアリーシャの愛する町を……。
「あ~……! 違うっての! そうじゃねぇ! 悪かった!!」
しかし、テミスが己の感情を切り離す直前。地面から跳び起きたバニサスが大声と共にテミスの肩を抱き寄せた。
「テミスちゃんが必死で俺達を護ろうとしてくれてんのは十分に分かってる! コイツだって、ホントはまだ何かを企んでンのかもしれねぇし、万が一ここで見逃したら、もっかい町を壊しに来るかもしれねぇ。……けどよ」
バニサスは言葉を紡ぎながら、テミスの瞳を覗き込むと、満面の笑みを浮かべて言葉を続けた。
「コイツにも、何か事情があってこんな事をしようとしたのかもしれねぇ。もしそうだったら、テミスちゃんが俺達を助けてくれたように、コイツの事も助けてやれんじゃないかって……。俺達のテミスちゃんなら、そうするんじゃないかって……思っただけさ」
そう言い終えると、バニサスはテミスから体を離し、まるで指令を待つかのように少年の傍らへ直立する。そして、柔らかな笑みをテミスへ向けて首を傾げた。
「…………ハッ。全く……強欲な奴め……」
短い沈黙の後、テミスは小さな声で呟くと、口元を小さく歪めてバニサス達に背を向ける。
どうやらこの世界は……この町の連中は、私が思っていたよりもずっと能天気で楽観的らしい。真っ赤に染まったこの手で剣を振るう私を英雄と呼び、あまつさえ敵まで救ってみせろと望む。身に余る期待を背負わされたものだとつくづく思う。
だが、何故だろうか。心を殺して剣を振り上げていた時よりも、ずっと心が軽いのは。
何故。私の心は、ここまで歓喜に打ち震えているのだろうか?
「バニサス。そいつは情報を吐かせる。ボディチェックをした後に牢に入れておけ」
「了解」
テミスは振り返らずにバニサスへ命令すると、足早にファントの門へと歩を進めた。その頬には、沈みかけの夕陽をキラキラと反射する、透明な涙が音も無く滴っていたのだった。
――腹の傷が発していた鈍く蝕むような痛みが、少しだけ和らいだ気がした。
2020/11/23 誤字修正しました




