271話 笑顔の意味
「ちょい待った! テミスちゃんっ!」
「っ――!?」
ギロチンのように持ち上げられたテミスの刃が少年へと振り下ろされる刹那。一つの声がその間に割って入った。
それに抑えられるかのように、テミスはピクリと剣先を揺らすと、声の方へゆっくりと視線を向ける。
「バニサスか。どうした?」
「いや、どうしたっつーか……って! 腹ッ! そっちこそどうしたってんだ!?」
「問題ない」
「いやいやいや! 大アリだろーがよ! 刺客は!? 倒したのかいっ?」
「あぁ……。たった今な……」
慌ててテミスへと駆け寄るバニサスに、テミスは努めて無表情を保ちながら言葉を返す。
紛いなりにも、ナイフで腹を刺されたのだ。痛みがない訳では無い。むしろ、戦闘でも何でもない平時に刺された分、その痛みは戦いで受けてきた傷よりも遥かに痛かった。
だが、それをこの少年の前でおくびにも出す訳にはいかない。
出してしまえば、この少年には、軍団長に一太刀を負わせ、苦痛を与えた……などという達成感が産まれてしまう。そんなもの、ファントの平和を害そうとした敵に与える訳にはいかない。故に、この少年には。自らの全てを懸けても足元にも及ばぬ絶望と、自らの犯した罪の後悔を抱えて死んでもらわなければならない。
「まさかとは思うが、そこの子供に……?」
「そのまさかさ。私も、こんな子供のナリをした刺客が居るとは思っていなくてな。ファントに忍び込んで吹き飛ばそうと目論んでいたらしいが……もう問題はあるまい」
「っ……!」
テミスの言葉にバニサスの顔が驚きに染まり、その視線が少年の傍らに落ちている爆弾へと走った。だがこれで、バニサスもこの少年が刺客だという事が理解できただろう。
「さ、さっさと処理を……っ!」
横に並んだバニサスの身体を避け、テミスは再び刃を天高く振り上げる。しかし、何を考えているのか、地面で震えながら固く目を瞑る少年と、テミスの掲げた刃の間にバニサスが割って入った。
「…………何故止める?」
「逆に訊くけどよ。テミスちゃんはなんで、コイツを殺すんだ? まさか、刺されたからなんて訳ねぇだろ?」
「無論だ。コイツの罪は、この町を吹き飛ばそうとした事……その目的に殉ずるために、私に牙を剥くのは道理だ」
「っ…………。けどよ!」
バニサスの問いを一笑に伏したテミスが答える。しかし、バニサスは一瞬だけ臍を噛んだように口籠ると、力強く叫びをあげる。
「けどよ! テミスちゃんのお陰で俺達ゃ怪我一つしちゃいねぇ。町だって傷一つついちゃいねぇんだ。なにも殺すこたぁ……」
「甘い。甘いな……。良いか? バニサス警備兵。我々がしているのは戦争だ。仕掛けられた攻撃に対しては、『次』を防がねばならん」
「っ……!!」
しかし、その叫びに対し、テミスは軍団長としてバニサスへ答えた。
テミスとて、バニサスの気持ちは痛いほど理解できる。
こんな年端もいかない少年を手にかけるのは、できる事ならば私だって遠慮したい。だが皮肉にも今は戦時中。この少年を無事に返せば、ファントの町に欠片でも被害が出れば……少年兵が有効であると判断され、第二第三の少年がファントへと襲い掛かってくるだろう。
なればこそ。その元を断つ。
その為に、わざわざこの身で刃を受け止めてやったのだから。
決意を胸に、テミスは立ちはだかるバニサスを再び避け、抜き放った剣を構える。
もう、脅しをかけるように高々と掲げる必要もあるまい。迅速に首を落とし、それで終いだ。
テミスの瞳から光が消え、その腕が少年の命を刈り取るべく、微かに助走距離を取る。
そして、今度こそ……断罪の刃が振り下ろされようとした刹那。
「――やっぱ駄目だ! テミスちゃん!」
「……っ!?」
その僅かに下がった肘を、真後ろで俯いていたバニサスが取り押さえた。
「バニサスっ……!? 貴様ッ!!」
「やっぱ駄目なんだ。確かに、テミスちゃんの言ってることは正しい。けどよ……それじゃ俺達は笑えねぇんだ」
「笑えない……だと?」
反逆とも取れるその行動にテミスが気炎を上げると、バニサスは即座に手を離して言葉を続ける。
「ああ……笑えねぇ。前にホラ……テミスちゃんが作ってくれたの。なんだっけ。卵のさ」
「……? 出汁巻き……か? それがどうした?」
あまりに突拍子もない事を言い始めたバニサスに、テミスは気炎を削がれ、目を丸くしたまま答えを返す。
「そう。それ。それだ……ダシマキ。ダシマキ食って酒飲んで……んで、みんなで笑ってよ……あの幸せをさ、壊したくねぇ」
「……何を馬鹿な。それを守るために私は――」
「――違ぇんだ……そうじゃない。なんつ~か……」
要領を得ないバニサスの言葉に、テミスは再び気炎を上げる。
この男は、一体何が言いたいんだ? バニサスの晩酌の一幕が、この刺客の少年を殺す事と何の関係がある?
テミスの胸中に、苛立ちに似た感情が沸き上がり始めると、宙を彷徨っていたバニサスの視線がテミスを捉え、その口が動き始める。
「確かに、やらなきゃなんねぇ時もある。そいつはわかっちゃいるんだ。でも、コイツみたいなやつまで皆殺してって……そしたら俺達、コイツらの分の幸せまで余分に奪っちまってる気がするんだ」
バニサスは、それまで揺らいでいた言葉を一変させ、芯のある声色でテミスに食い下がった。
そして、言い終えると同時に深く頭を下げ、叫ぶように言葉を締めくくる。
「頼む! テミスちゃん! 責任は俺が取る! だからどうか……ここは俺に免じて退いちゃくんねぇか……?」
バニサスの懇願が野に響き、一陣の風が遠くの木々のざわめきと共に沈黙を運んで来る。
しかし、バニサスが頭を下げたその頭上には、冷たい目で歪み溶けた蝋燭の様な笑みを浮かべるテミスの顔があった。




