269話 小さな刺客
夕暮れ頃。
テミスは一人、巨大な牛を縛り付けた荷車を引きながら、ファントへの帰路を歩んでいた。
「っ……ふぅ。ようやく門が見えてきたか……。まさか、綺麗に倒すよりも運ぶ方が大変だとはな……」
そうぼやきながら、テミスは自らが牽く荷車に乗せた獲物を見上げる。
ワイルド・バイソン。食肉としても利用されるモンスターの一種で、その肉は少々固いものの、焼けばとても上質な肉汁を溢れさせるため人気が高い。
しかし、猛牛の様な外見の通り気性は荒く、その凶暴性ゆえに人的・物的被害も多いため、定期的にギルドによる駆除が依頼されるのだ。
「フフッ……だがこれは、紛れもなく一級品であろうな?」
そう自画自賛しながら、テミスが見上げたワイルド・バイソンの肉体にはほとんど傷が無く、首元の急所にのみ斬撃の切れ込みが入っているだけだった。
これであれば、肉が傷む事も無いし、革もそれなりの高値で売れるだろう。もしも、高値が付いたのならば、その金でマーサさん達に、この個体の最高級部位を買い戻してお土産にしても良いかもしれない。
「っ……! 痛ゥ……」
瞬間。身体を捩った体制で重い荷車を牽いていたせいか、テミスの肩や背に鈍い痛みが走った。
「痛つつ……腕が鈍っているのか、狩猟が難しいのか……なにせ、私もまだまだだな……」
そう呟くと、テミスは苦笑いを浮かべてひとりごちり、体勢を戻して荷車を牽き始める。
そもそも、ワイルド・パイソンの狩猟はある程度経験を積んだ冒険者が、パーティーを組んで狩猟に挑むレベルのモンスターなのだ。それを余分な傷をつけずに単独狩猟している時点で異常なのだが、テミスはそんな事など知る由も無かった。
だからこそ。修行も兼ねたこの狩猟で、一撃必殺に拘るがあまり、幾度と無く突進を躱し、時には受け止め、弾き飛ばされ、魔獣扱いとはいえ、獣を相手に傷を負った事は、テミスにとって自らの実力不足の指標でしか無いのだ。
「だが……うん、まぁ……名誉の負傷という事にしておこう」
しかし、テミスの頭の中は既に、持ち帰った後のワイルド・パイソンの肉に支配されていた。
分厚い筋肉の奥に秘された、きめ細かい脂質を溜め込んだ最高級部位。カリッと焼きあげた表面を食い破れば、甘露の如く濃厚な脂が湧き水のように溢れ出てくる。
「っ……んぐっ……いかん……涎が……」
テミスは、自らの妄想が産み出した味に唾を呑み下すと、空想を現実にするべく足を速めた。
そんな良い肉を持ち帰れば、マーサさんもアリーシャもきっと喜んでくれるに違いない。
テミスは、再び幸せな空想へと脳味噌を浸して帰路を駆ける。
「んっ……?」
しかし。そのような状態にあっても、テミスの目は一つの違和感を見逃す事は無かった。テミスの数歩先を、ボロ布のような外套を身に着けた少年が一人、ファントへ向かってゆっくりと歩いていたのだ。
一見すれば、人気の無い夕暮れ時の街道。貧しい家の少年が、帰路へ着いているかのようにも見える。
だが、ことファントにおいては、ボロを纏った子供が働きに出て、手ぶらで帰路についているような家は一軒たりとも存在しない。否。してはならないのだ。
故に。この街を治める者として、テミスが前を歩く少年に声をかけたのは必然の事であった。
「なぁ、君。ファントの子か?」
「――っ!?」
ビクリ。と。テミスが声をかけた瞬間。ボロを纏った少年は大きく肩を震わせ、恐る恐るといった雰囲気でテミスの方へと顔を向ける。
「ん……?」
「……お姉ちゃん……誰? あの町の人?」
「っ……」
少女の容姿を生かして、テミスが柔らかく微笑みかけてやると、少年はいくばくか心を許したのか、小さく問いかけた。
しかし、少年の問いを聞いた瞬間。テミスの目が刹那の間のみ鋭く光り、普段はほとんど意図して使う事の無い表情筋に力が籠る。
「あ……うぅん……どうだろう? 私は冒険者だから、あの町の人って訳ではないかな?」
「……そっか」
テミスが咄嗟に吐いた嘘を聞くと、少年は視線を逸らすして黙り込んだ。そして遂には、小さく俯いてその場に立ち止まる。
「……? どうしたの? 大丈夫?」
その数歩前まで歩いた所で、テミスは立ち止まると、可愛らしく小首をかしげて見せた。
――これで、この少年が街道を横切って逃げ出す事は不可能になった。更に、無理に押し通ろうとすれば、少年は私の横を通り抜けなければならない。少なくとも、確実に街中へ逃れる術は奪った事になる。
俯いた少年から目を離さないまま、テミスは注意深くその様子を探る。
この少年は、間違いなくファントの町の人間ではない。そして、人間領方面から歩いて来たという事は、十中八九人間領に住む子供なのだろう。
ならば、その目的はしっかりと明らかにする必要があった。
家を飛び出し、魔王領に亡命を希望しているのならば良し。しかし、それ以外の理由があった場合……。
夕日がゆっくりと沈みはじめ、寂しい雰囲気を醸し出し始めた街道が沈黙に包まれ、テミスの中の疑念が徐々に疑惑へと変わり始めた頃だった。
「……っ!! ごめん! お姉ちゃんッッ!!」
「なっ――っ!!!」
突如。悲鳴のような謝罪を叫んだ少年は脱兎の如く駆け出すと、街道を外れてファントの町を囲む壁に向けて疾走を始めた。同時に、即応すべく身構えていたはずのテミスは、少年が身を翻した瞬間にはだけた外套の下に視線を吸い寄せられ、初動の反応が僅かに遅れる。
「チィッ――!! 待てッ!!」
即座に荷車の牽き手から飛び出し、少年の背を追いかけるテミス。その顔には、かつてない程の焦りの表情と冷や汗が浮かんでいた。
何故なら。
テミスの視線を吸い寄せた物。
少年は外套の下に、鉱山の発破などで使われる爆薬を忍ばせていたのだった。




