259話 執念の顎
カツ、カツ。と。テミスの足音が響くたびに、石畳を燃やす炎がその背に背負った蒼い翼へと吸い込まれていく。それはまるで、役目を終えた炎が還るようにも、炎に呑まれたサージルの命を吸い取っているかのようにも見えた。
「フン……」
サージルが立っていた位置まで歩を進めると、テミスは小さく鼻を鳴らして息を吐いた。そしておもむろに右手を掲げると、周囲で燃え盛る炎が、テミスの右手へと次々に収束されていく。それは明らかな攻撃動作だった。
収束した蒼い炎はその放つ光を白く変え、太陽のように眩い光線が周囲へと放たれている。
「待てテミス! 何もそこまで……!」
勝負は既に決している。そもそも、あれ程の業火に呑まれたのだ。傍から見れば、死体すら残っているかも怪しいだろう。
見かねたルギウスが背後から声をかけると、ゆっくりと振り返ったテミスは皮肉気な笑みを浮かべて口を開く。
「何が、そこまでなんだ?」
「っ――!!」
ルギウスは、テミスが言葉と共に顎で示した先、その足元を見て絶句する。
そこには、倒れ伏してこそいるものの、五体満足で微かに息をするサージルの姿があったのだ。
「驚く事でもあるまい。心臓を貫いても生き延びる程の生命力。加えて、奴の胸には真新しい刺し傷があった。なればこそ、死体であろうと塵になるまで消し飛ばすほかあるまい」
冷たく放たれたテミスの言葉に、ルギウスは自らの喉が意識せず生唾を飲み込んでいた事に気が付いた。
彼女はいったい、どんな次元で戦いを繰り広げているんだ……。
その戦慄は震えとなって現れるが、ルギウスは意地を以て拳を握り締め、その震えを押し殺す。
普通であれば、魔族であれど心臓を貫けばそれは致命傷となる。致命傷を与えたという事は即ち勝利であり、その先で戦いが継続される可能性など考える事すら愚かな無駄な行為なのだ。
だというのに。テミスはそのゼロに等しい可能性を計算に入れ、その敵もまた、彼女の計算が当たり前であるかのように不可能を越えてきた。
「うっ……くっ……」
「…………」
光球を構えたままルギウスに目を向けていたテミスの足元で、微かな声が二人の耳まで届いてくる。それは確かに、彼女たちが相対していた敵、サージルのものであった。
「フン……まぁ良い。今回ばかりは、目覚める前に始末してしまおうと思っていたのだが……結果は変わるまい」
「っ……!!」
自らの声に反応して見開かれた目を見下ろしながら、テミスは吐き捨てるように言葉を続ける。同時に、サージルに覆し得ぬ敗北を突きつけるかのごとく、右手に収束させた光を突き付けた。
「女神を名乗る悪神に誑かされた愚かな狂信者よ。後悔しているか? 与えられた餌を盲信せず、己が目で真実を見極めようとしなかった事を……」
「グクッ……こ……の……」
その、同情でもしているかのように優しい声色に、サージルは怒りと憎しみの籠った視線で答えていた。
何故敵わない。憎むべき悪が。女神様に選ばれながら、その大恩を忘れて寝返った仇敵が目の前に居ると言うのにッ……。
何故、この脆弱な体は……指一本動かす事が叶わないッ!!
「ア……ガッ……」
「…………」
その血走った目を見下ろしながら、テミスは静かに光球を携えた右手を構える。その狙いはサージルの胸の中心。幾ら女神の加護を受けていようと、幾ら生命力が高かろうと、骨片一つ残さず燃やし尽くしてしまえば生き残る事ができる道理など無い。
「……哀れなものだ」
ボソリ。と。
まるで、心の底から悼んで居るかのように、テミスは小さく言葉を零す。
本当に、哀れな男だ。ただその信念が無かったが故に……。自らが得た力に踊らされ、間違った道を盲信した。その結果、サージルは何も成し遂げる事無く命を落とすのだ。
「ハッ……いっその事、どこか争いの無い山奥でひっそりと暮らしていればよかったものを」
皮肉気に唇を歪めて呟いた後、テミスは右手の光球をサージルの胸へと叩き込んだ。
「グ――ガッ……!!!」
刹那。サージルの身体は燃え上がり、蒼い炎が瞬く間にその全身を包み込む。
そう。誰かに言われたから戦う……。その程度の戦う理由しか持ち合わせていなかったのなら、この戦争に身を投じる必要など無かったのだ。
元々何も無いのであれば、無理に狂信で塗り固めてまで理由を作らなくて良かった。兵士とならず、ただ一人の冒険者としてこの世界で生きてゆく……。
「もしお前が……そんな道を辿っていたのなら……」
人型に燃え盛る蒼い炎の傍らに屈みながら、テミスはどこか悲し気に揺らめく炎へと呟いた。
もしも、サージルが自由に世界を駆ける冒険者だったのなら……。
いつの日か戦線を越え、ファントの町を訪れたかもしれない。その旅路の疲れをあの温かな宿で癒し、マーサ達の食事に舌鼓を打つ。もしかしたら、私が料理を配膳したりして……。
訪れなかった未来を夢想しながら、テミスは静かに腰を浮かせる。
サージルを焼き尽くすまで、この炎が消える事は無い。胸の中心に撃ち込んだ炎球は内側からサージルの全てを焼き尽くし、灰へと還すだろう。
戦いは終わった。『敵』は倒したのだ。
そう、テミスが炎から目を離した瞬間。
「デッ……ミィィィッッッ……スウウゥゥゥゥゥッッッ!!!」
「……ッ!!!!!?? ――ぐあっ……!?」
怨嗟に塗れた掠れた咆哮が炎の中から響き渡り、炎の塊となったサージルがテミスへと襲い掛かった。その身を焼き焦がされながらも、サージルの口はテミスの首元を捉えて赤熱する歯を突き立てた。
「貴……様ッ……!!! 痛ゥッ……!!!」
幸いにも、自らの能力である蒼炎がテミスを焼く事は無い。しかし、炎によって赤熱したサージルの顎が、食らい付いた首筋を深々と千切り取っていく。
「テミスッ!!」
「クソッ!! ッア゛ァ゛!!」
弾かれたようにルギウスがテミスに駆け寄る。しかし、テミスはその手がサージルに触れる前にその身体を蹴り飛ばす。肩口の肉が裂け千切れる激痛と共に、鮮血をまき散らしながらサージルの身体が宙を舞い、数メートル離れた石畳の上へと打ち付けられた。
「忘……れるなッ! 僕……勇者だッ!! お前……は……絶対ッッ……!!」
この一撃が最期の力だったのか、炎の塊はもぞもぞと石畳の上を動き回りながら、怨念の叫びをまき散らし、次第に動かなくなる。燃やすモノが無くなった蒼炎がゆっくりと風に舞い消え、サージルだった灰もまた、サラサラと風に漂って宙へと消える。
その後に残されたのは、激しい戦いの傷跡が残る町とテミス達。そして、異様な怨念に圧倒され、ただその光景を見守る事しかできなかった人々だけだった。
「っ……いかれた狂信者め……お前の気持ちは一生理解できんな……」
ぼたぼたと血の流れ出す首筋を抑えながら、テミスは蔑むように吐き捨てたのだった。




